SSブログ

緑川東問題2020(その2) [総論]

「「使用段階」については、石棒自体の使用方法を樹立させることとすれば、SV1内には樹立させるためのpitや支石なども無いため、この場所での使用は考えにくい。」(大工原 豊・長田 友也2020「石器の出土状態」『縄文石器提要』考古調査ハンドブック20、ニューサイエンス社:165.)

ある意味で衝撃的な一文である。

なぜならば、2014年の考古誌刊行以来2020年に至る7年の間に生じた様々な出来事・意見のやり取りなど「緑川東問題」に関する文献の提示はおろか一切の言及がなく、あたかも何事もなかったかの如く看做されているからである。

「SV1機能時に遺構内に石棒を立てられた可能性も考えられるが、それに見合うピットや石棒自体に樹立痕が不明瞭なことから、そうした想定は成り立ちがたい。」(長田 友也2014「国立市緑川東遺跡を石棒から読む」『緑川東遺跡 -第27地点-』:159.)
「SV1自体の構造を考慮すれば、緑川東遺跡内で4本の石棒の利用があったとしても、樹立時のセットや上屋の問題などから、SV1内での利用の可能性は限りなく低いものと考えられる。」(同:164.)

続きを読む


nice!(2)  コメント(1) 
共通テーマ:学問

松本2020「日本の博物館におけるジェンダー表現の課題と展望」 [論文時評]

松本 直子 2020「日本の博物館におけるジェンダー表現の課題と展望 -歴博展示に触れつつ-」『国立歴史民俗博物館研究報告』第219集:487-494.

「考古学的な研究成果を分かりやすく示すことは、教育効果を高めるうえで重要であるが、過去の人々の行動や様子を具体的に復元する際には考古学的な証拠が得られない部分についても推定によって補わざるを得ない。推定に任される部分は、時代が古くなるほど大きくなる傾向があり、そこに現代的な感覚や思考が投影される傾向がある。
復元展示におけるジェンダー表現の偏向は、現代のジェンダー認識に大きな影響を与えかねない深刻な問題である。過去の社会がどうであったか、という認識は、「昔からそうであった」として現在のあり方を正当化する根拠となる。一般的には、先史時代のジェンダーについては、漠然とした推測や思い込みで語られることが多いが、博物館における展示はそれを正当化する学術的根拠となりうる。復元画やジオラマのような視覚的表象は、非専門家にとっては文字で書かれた情報より理解しやすいため、影響力も大きい。そこに現代的なジェンダー・バイアスが投影されていれば、意図せずして現代のジェンダーのあり方を再生産することに貢献してしまう。過去の社会に関する視覚的表象は、絵本、イラスト、漫画やテレビ・コマーシャルなど、多様な媒体に存在するが、博物館展示は専門家が学術的な成果に基づいて製作したものとして信頼度が高く、社会的責任も大きい。」(487.)

続きを読む


nice!(2)  コメント(0) 
共通テーマ:学問

緑川東問題2020(その1) [総論]

「ただ、大形石棒の機能時に立っているか否かについての議論は、地域や時期によって異なると推測されるが、ジェンダー論の問題ではなく、あくまで出土状況に対する研究者間の見解の相違に起因するものである。」(阿部 昭典2020「遺構論」『縄文時代』第31号:200.)

本当にそうなのだろうか?
そもそも「大形石棒の機能時」とは、いったいどのような状況を指すのだろうか?
そのような状況が具体的にイメージできないからこそ「第2の道具」といったカテゴリーが提唱されたのではなかったか?

それよりも問題なのは、緑川東問題からジェンダー論を切り離す意図である。

続きを読む


nice!(2)  コメント(1) 
共通テーマ:学問