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赤松と和島 [学史]

「考協が反動の支柱になることは、当初の会員資格でわかっているので、和島氏とかなり論争したが、彼は内部変革ができると考え、私はとうていダメだ、というわけで、わかれた。戦前も、和島氏の東大入学、専門研究者化に反対したが、そこで意見がわかれたが、結局、和島氏には和島氏の道、私には私の道ということで、彼に迷惑が及ばないよう、唯物論全書「考古学」も彼との共著を単独に切替えた。その結果は周知の通りである。」(赤松 啓介1974「戦う若い諸君へ!」『プロレタリア考古』第9号:2.)

なぜ考闘委(全国考古学闘争委員会)と文全協(文化財保存全国協議会)が、あそこまで反目・対立しなければならなかったのか、当時を知らない世代には、ピンとこないのだが、つまるところ、ここで述べられていることに帰着するのではないかというのが最近の結論である。

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