SSブログ

佐々木2023「新地平グループ解体のすすめ」 [論文時評]

佐々木 藤雄 2023「新地平グループ解体のすすめ -闘わない新地平グループへの公開質問状-」『異貌』第40号:2-58.

「本稿は、闘わない新地平グループ、否、闘えない新地平グループ、逃亡する新地平グループに対する佐々木からの公開質問状であり、新地平グループ解体のすすめである。」(4.)

本文中に取り上げられている研究者たちも、親しい人や身近にいる人たちが多く、何とも微妙な雰囲気である。

ある研究グループに関する存続について、他者が解散を勧告するというのもあまり聞かない話しである。活動内容に魅力があり賛同する人が一定数集うのならば存続するし、魅力がなくなり集う人も減り現状を維持することが出来なくなれば解散するだろう。
ただ学問的な主張に対して、学問的な批判・異論が提出されたならば、それに対してしかるべき応答がなされるというのが、学問上のルールでありマナーであろう。もちろん批判や異論にも様々なレベルがあって、それに応じた応答の仕方があってしかるべきと思われるが、まっとうな批判に対してまっとうな応答がなされなければ、そのことをもって研究グループの魅力も失われて次第に存続も困難となるだろう。

「…『縄文中期集落研究の新地平』と名づけられた最初のシンポジウムから30年近くが経過した現在、自らを「現場派」と称し、伝統的な集落研究に立つ側を「書斎派」、「守旧派」と激しく批判してきた「見直し派」、すなわち新地平グループの改革者的な立場は、その輝きを急速に失いつつある。(中略)
…以上の作業を通してうきぼりになったのは、既成の集落研究にみられる「実証的手法」の欠如を批判する「見直し派」の姿ではなく、年を追って肥大化する「結果的環状集落論」の綻び隠しに汲々とする、もう一つの「守旧派」の姿であった。新地平グループの本来の目的が「実証的手法」を用いた新しい縄文社会像の提示にあることはいうまでもないが、青年期後期を中心とした彼らが老年期を迎えようとしている今現在でもその課題は遠い地平に据え置かれたままであり、しかも解明に向けての熱気や努力というものはまったくといってよいほど認められない。
それに代わる最優先課題として登場していたのが「結果的環状集落論」という彼らのテーゼの絶対化とその防衛であり、このような本末転倒ともいうべき状況は、「結果的環状集落論」をいつしか鵺のような継ぎ接ぎだらけのお化けへと変貌させている。当該集落論に関する新地平グループのめまぐるしい説明変更はその証しであり、彼らが提示した「計画的環状集落論」と「結果的環状集落論」という基本的な対立図式の中にも大いなる虚構や作為が存在している。」(3.)

引用文は、冒頭に近い文章で、これで本論のほぼ全てが言い尽くされている。
以下「横切りの集落研究」(Ⅱ)、「小規模集落論=大規模集落否定論」(Ⅲ)、「結果的環状集落論」(Ⅳ)、「学史理解」(Ⅴ)、「調査方法」(Ⅵ)などにおいて、筆者が1990年代以来提起してきた縄文集落論、特に2010年代以来の「新地平批判」の諸成果が網羅されている。

「…集落研究の新地平を目指す小林の熱い叫びに一瞬たじろぐが、瀕死の状態に喘いでいるのは改革派としての新地平グループとその科学的精神であり、彼らのいう伝統的集落研究ではない。不都合な真実の隠蔽・改竄を繰り返す一方、集落研究の否定的な現状を大仰に嘆いてみせる小林たちの芝居がかった「捏造の考古学」は、もはや歴史科学とはまったく相容れない存在へと変貌しており、とりわけ自らに対する批判を一切タブー視する独善的で頑迷な姿勢は、相互批判を通して真理を探究する研究者集団というよりも、唯一絶対の神を信奉し、異端を徹底的に攻撃・排除する宗教集団の姿と見事に重なり合う。すなわち、藤村新一や岡村道雄らの「ローム真理教」に代わる「ドット真理教」の誕生である(佐々木2001)。
闘わない守旧派、否、闘えない、逃亡するネオ守旧派、新地平グループ解体のすすめを提出する理由である。」(45-46.)

今の若い人たちにとっては、普段読む学術論文では目にすることのないような表現が散りばめられていることから、ある人はたまげ、ある人は拒否反応を示すことだろう。私などはこうした文章を読むと、70年代の『プロレタリア考古』の時代を思い起こす。おそらく読む人の世代によって、受け止め方も様々であろう。
しかし重要なのは、そうした表現の良し悪しではなく、表現されている内容そのものである。

私自身かつては「新地平グループ」から求められていくつかの論稿を寄せたこともあり(五十嵐2006b「考古時間論 -縄紋住居跡応用編-」『縄文研究の新地平(続)』六一書房、五十嵐2012d「型式組列原理再考」『縄文研究の新地平(続々)-縄文集落調査の現在・過去・未来-』セツルメント研究会、五十嵐2016b「<場>と<もの>の考古時間 -第2考古学的集落論-」『考古学の地平Ⅰ -縄文社会を集落から読み解く-』六一書房)、ある人たちから見れば「あちら側」と見られていることだろう。しかしこうした「つかず離れず」の関係も五十嵐2016c(「緑川東問題 -考古学的解釈の妥当性について-」『東京考古』第34号)あるいは2017年に開催した研究集会以来、とんと声がかからなくなり現在に至るまで微妙な空気が流れている。

本論の著者との関係はさらに遡り、ある考古誌の批評(五十嵐1999e(「旧石器資料報告の現状(Ⅰ) -坂下遺跡の分析を通じて-」『東京考古』第17号)を契機としたやり取り以来、これまた微妙な空気が流れている。

いずれにせよ、いずれの場合においても批判した側・批判された側双方の真摯なやり取りが、肝要である。
それが学問と呼ばれる営みに携わる者の責務であろう。

公開質問状を名乗る本論に対してどのような対応が示されるのか、多くのひとが注視している。
本論で批判された研究グループにおいては、是非とも真摯な対応による実りある意見交換が実現されるよう希望する。


nice!(2)  コメント(0) 
共通テーマ:学問

nice! 2

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。