SSブログ

考古学と現代美術をめぐるミニトーク [研究集会]

トークイベント「考古学と現代美術をめぐるミニトーク」
安藤広道(慶應義塾大学文学部教授)×山田健二(美術家)
日時:2023年4月14日(金)19:00-20:30
場所:慶應義塾大学 三田キャンパス G-Lab(東館6階)

「発掘は実のところ痕跡を選択する行為であり、「遺跡」とそこで語られる「歴史」はその選択により構築されるものでもある。
この展覧会では、選択によって得た成果とともに、選択しなかったものにも目を向ける。構築された枠組みをいったん外してみることで、「遺跡」と「歴史」のあり方を問い直す機会としたい。」(展覧会案内チラシより)

発掘調査地に構築された学術展示施設で開催されている発掘調査の展覧会に関連するイベントである。
平日の夜間にも関わらず三十人余りの方々が参加されていた。
予定されていた質疑応答は、時間がないからと省略された。
非常に興味深いテーマであるだけに、残念である。
参加されていた多くの方々も、さぞかし色々な意見を述べたかったに違いない。
そうした消化不良状態を解消するために、考えたことを少し述べてみたい。

「発掘は、実のところ痕跡を選択する行為である。」→
展示では、「選択されなかった痕跡」、「発掘しなかったもの」として具体的に近現代の痕跡が指摘されて、「選択しなかった」・「発掘しなかった」理由として3つの事柄が述べられた訳であるが、示された3点について違和感を述べたが、今回そのことに対する応答を聞くことはできなかった。

「遺跡とそこで語られる歴史は、その選択により構築されるものである」→
今回のイベントにおいても「考古学と現代美術」という主題が選択された訳であるが、まさに「考古学と現代美術」という形で「構築」されたと言えよう。
「遺跡」問題など、他にも再「構築」すべき多くの選択肢があったのだが。

「この展覧会では、選択によって得た成果とともに選択しなかったものにも目を向ける」→
例えば発掘と言えば、調査地で土を掘り、穴ぼこを掘り出し、土層の断面を観察するといった状況がイメージされる。この展覧会や関連するウェブにおいて上映されていた動画でも、そうした光景が「選択」されていた。
しかしそこから漏れたものは、なかっただろうか。すなわち「選択しなかったもの」である。
例えば発掘という作業は、野外での作業だけで終了する訳ではない。野外での作業はあくまでも「前半戦」であり、出土した遺物や遺構の記録化すなわち「後半戦」である考古誌を作成する室内作業を経て考古誌が刊行されなければ完結しないのである。
ところが「三田二丁目町屋跡遺跡」に関わる整理作業はほとんど前景化されていないようである。
整理調査が三田の民族学考古学研究室ではなく、トキオ文化財株式会社の聖蹟整理事務所でなされたからであろうか。

「構築された枠組みをいったん外していることで、「遺跡」と「歴史」のあり方を問い直す機会としたい。」→
展覧会の特別企画として「Mita Intercept」と名付けられた映像インスタレーションが公開され、トークイベントでも紹介された。そして作者から作品のキーワードである「インターセプト」について、「傍受」という日本語が示された。
私たちは「構築された枠組み」を「傍受」して、その「構築性」を明らかにしなければならない。
その際に必須な視座は、「何がどのように構築されているのか」ということにのみ注目するのではなく、「何がどのように構築されていないのか」に意を向けることである。

痕跡と自分とのあいだ」という非常に興味深いテーマが設定されているにも関わらず、現在の自分の足元に続く150年間が全くの空白となっているのは、何故なのか?
それでリアリティのある「痕跡と自分とのあいだ」が語れるのだろうか?
近世の徳利は遺跡を象徴する<もの>として対談者の前に並べられていたが、対談者が興奮したというビール瓶が並べられていないのは、何故なのか?

参加者それぞれが、この展示会において、このトークイベントにおいて「何が語られていないのか」について、一人ひとりが気づいた点を述べたとしたら、非常に有意義な時間になったことであろう。
とても90分の枠には収まらないだろうけど。

【暫定的な結論】
「遺跡とは何か」を明らかにするためには、「発掘とは何か」を明らかにしなければならない。


nice!(2)  コメント(0) 
共通テーマ:学問

nice! 2

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。