SSブログ

鎌倉大仏殿高徳院所管「観月堂」の調査・研究 [研究集会]

韓日国際会議 鎌倉大仏殿高徳院所管「観月堂」の調査・研究 -来歴・現状・これから-

日時:2023年3月28日(火)10:00~17:30
会場:慶應義塾大学三田キャンパス東館6階 G-Lab

1.観月堂の三次元計測と高精細画像撮影(小宮 広嗣)
2.観月堂の色彩計測(寺師 太郎)
3.観月堂の顔料分析(犬塚 将英)
4.観月堂の彩色の様式と時期に関する考察(孫 賢淑)
5.朝鮮王室関連祠堂としての「観月堂」の検討(李 奎喆)
6.観月堂の沿革と淵源の追跡(洪 順敏)
7.観月堂の現状及び構造安全性の調査・分析(金 成都)

コメント1.(郭 閶鏞)
コメント2.(五十嵐 彰)
コメント3.(外村 大)

それぞれの口頭発表を研究集会のサブタイトルに従って「来歴・現状・これから」の3つに振り分けてみる。
「来歴」については発表4(孫)、発表5(李)、発表6(洪)の3本、「現状」については発表1(小宮)、発表2(寺師)、発表3(犬塚)、発表7(金)の4本が相当しよう。
概ね日本側が「現状」について、韓国側が「来歴」について発表するという構図である。
しかし肝心の「これから」については、どなたも触れられなかったので、私が25分という枠の中で少し意見を述べた。
コメント前に設定されていた質疑応答および総合討議において、会場からの若い参加者によって「これから」について述べられていた。誰もが関心を抱いていたにも関わらず、発表者の誰もが言及しなかったことに対する一つの反応だったように思われる。

来歴については、今まで漠然と「景福宮由来」といったことが述べられてきたが、実は景福宮の南西に隣接する「彰義宮」に存在した世子ないしは世孫の祠堂である可能性が指摘された。彰義宮は、併合前年の1909年に東洋拓殖会社の社宅地となる。彰義宮にあった「懿昭廟」・「文禧廟」という二つの祠堂は、1900年に明洞聖堂の東側の「永禧殿」に移され、永禧殿跡地は1923年に本町警察署となる。その間に、二つの祠堂のうちの一棟が、日本に搬出されたものと推測される(以上は当日配布資料集の発表6洪氏発表による)。

こうした動向は、1904年から1908年にかけてなされた朝鮮王室の財政を整理して国有化する施策(勅令第39号および第50号)が大きく関わっているようだ(発表5の李氏発表:157.)。もちろん1904年日韓議定書、第一次日韓協約、1905年第二次日韓協約(乙巳条約)、1906年統監府設置、1907年第三次日韓協約といった植民地化に向けてなされた一連の施策が大きく作用していることは論を待たない。そうした過程における搬出・搬入である。

「祠堂」とは、祖先の霊を祭る建物である。本件の場合は、王族という特別な地位にあった人物の霊を弔う特別な宗教的な建造物である。「観月堂」は、従来考えられてきたような単なる王宮の一部を構成する建物から、ある故人に関する追悼の<場>へと大きく意味合いを変えつつある。

今まで文化財返還については、「あるべき<もの>を、あるべき<場>へ」という原状復帰の原則を述べてきた。しかし今回の研究集会への参加を通じて、実はそれでは不十分ではないかという思いが強まってきた。もう少し「原状」という意味を考えなければならないのではないか。
すなわち「あるべき<もの>を、あるべき<状態>にある<場>へ」でなくてはいけないのではないか、ということである。

「観月堂」は、ただ単に元の場所である「彰義宮」あるいは「永禧殿」に戻すだけでは、不十分ではないか。
「観月堂」が搬出された時は、朝鮮は分断されていなかった。単一の国家が形成されていたのだ。
本当に「元の状態に戻す」のならば、分断状態の<場>に戻すのではなく、持ち出された時と同じ統一された「あるべき<状態>の<場>」に戻さなければならないのではないか。

あるべき<状態>が、たとえすぐには実現しないとしても、あるべき<場>へ戻す努力の積み重ねがその礎となることを希求したい。


nice!(2)  コメント(0) 
共通テーマ:学問

nice! 2

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。