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遺跡問題2023 [遺跡問題]

「港区では、近世(江戸時代)の遺跡については、遺跡の特徴を最も良く示す名称(例えば、遺構等の最も残存状態が良好な時期の遺跡該当地居住者あるいは占有者名、遺跡該当地の土地利用を最も端的に示している名称等)を冠し、遺跡名称としている。また中世以前の遺跡については、遺跡所在地を示す最も適当な地名等を冠し、遺跡名称としている。本遺跡周辺は江戸時代に愛宕下大名小路等と呼ばれ、大名・幕臣屋敷が集中していたことから「愛宕下武家屋敷群」として括り、個々の調査地点に既述の方針に従って遺跡名称を付すこととした。本遺跡は、検出遺構・出土遺物の主体が、陸奥一関藩田村家の屋敷に関連するものであることから、「愛宕下武家屋敷群ー陸奥一関藩田村家屋敷跡遺跡」とした。遺跡番号は「TM181-4」である。」(『愛宕下武家屋敷群 -陸奥一関藩田村家屋敷跡遺跡- 発掘調査報告書』2017「凡例 1.遺跡名称」)

2005年に地中から「X字」状に組んだ地中梁の端部に斜めに樹立する櫓基礎が出現して度肝を抜かれた思い出の地である。

現在の西新橋四丁目に所在するが、それ以前は芝田村町と呼ばれていたエリアである。

発端は、環状第二号線(新橋・虎ノ門地区)の構築に伴う発掘調査である。幅員40m・長さ1kmに及ぶ巨大なトレンチ状の事業地を2004年から2011年まで8年間調査した。三期にわたって調査したが、私はその最初を担当した。その成果が『愛宕下遺跡 Ⅰ』(2009)2分冊・『同 Ⅱ』(2011)4分冊・『同 Ⅲ』(2014)10分冊、総計6,014ページという膨大な記録となって残された。

「調査対象域である「環状第二号線新橋・虎ノ門地区第二種市街地再開発事業用地」は、全体として港区遺跡番号149として周知されているが、範囲が広域であるため、概ね街区単位に枝番号を与えている(ex.「No.149遺跡-1地点」あるいは【149-1地点】等)。さらに、全調査対象域内における各年度の調査は、そのつど事業用地として収用された個別の小範囲が対象となるため、同一地点(街区)内においても調査年次が複数年にまたがることが多い。その場合は、さらに枝番号を付すこととした(ex.「149遺跡-1-2地点」等)。調査の主たる対象は江戸時代の武家屋敷であるが、上記のように分割された各調査範囲は、武家屋敷の一角の調査にとどまることとなった。また本事業用地の遺跡名称については、港区内の類似する西久保城山地区の武家屋敷跡遺跡で記されている「居住者が数回入れ替わっていることと複数の屋敷地に亘っていること」(『西久保城山地区の武家屋敷跡遺跡』(仮称)城山計画用地内遺跡調査会1994)を参考に、特定の武家屋敷名を代表として事業用地全体の遺跡名とすることは整合性を欠くこともあり、本報告においては上記事業用地の埋蔵文化財包蔵地である「港区No.149遺跡」の総称として「愛宕下遺跡」の名称を用いることとした。」(『愛宕下遺跡Ⅰ』2009「例言2」)

都心部を貫く新規の幹線道路の開通によって周辺区域では開発が促進されて、環2の隣接区域では開発に伴う発掘調査が相次いでいる。その一つが冒頭に紹介した「一関藩田村家屋敷跡」周辺である。
「一関藩田村家屋敷跡」関連において環2の調査は「第1次調査」と位置付けられているが、2004年(149-24)、2005年(149-25・26)、2006年(149-19・20)、2008年(149-20-3)、2009年(149-21・22・23)と6年に及んでいる。その後北側隣接地における民間開発に伴って2016年に第2次調査、2019・20年に第3次調査が行われている。

最初に調査するのも訳が分からずそれなりに大変だが、すでに調査された隣接地を後に調査するのも以前の調査成果を取りまとめてその整合性を図りながら自らの調査を位置づけなければならないから大変である。調査というのは、常に後からなされる調査によって吟味される訳である。調査というのは本来そういうものであり、報告対象である調査区のことだけ記せばいいというものではないはずである。

ところで、<遺跡>問題である。
環2調査(田村家第1次調査)では、報告書名として「愛宕下遺跡」という名称が採用された。ここに至る経緯も様々あるのだが、それはさておき、遺跡名称(愛宕下)=包蔵地番号(149)=開発事業地という構成である。その下位区分として包蔵地番号に枝番号をつけて年度ごとの調査区としている。それが報告書刊行後に街区ごとに4つに括られた。
後続する周辺エリアでの発掘調査(田村家第2次・第3次調査)では、報告書名として「愛宕下武家屋敷群 陸奥一関藩田村家屋敷跡遺跡」という名称が採用された。いわば田村家屋敷など個別<遺跡>の集合体(遺跡群)として「愛宕下武家屋敷群」なるものを設定して、その構成要素として個別の<遺跡>を位置づけた訳である。遺跡群名称(愛宕下武家屋敷群)=包蔵地番号(181)>個別遺跡名称(田村家屋敷跡)=包蔵地枝番(181-4)=開発事業地(調査区)という構成である。

両者のどこが違うのかすぐには分かり難いが、発想が大きく異なり、命名システムが根本から異なる。それが「調査区周辺の遺跡」という1枚の挿図にごっちゃになって示されている訳である。
「MT-149」と「MT-181」では意味が全然違うし、近隣にばらまかれている「MT-19」(港区No.19遺跡)とも「MT-93」(伊勢菰野藩土方家屋敷跡)とも「MT-98」(汐留遺跡)とも異なり、それぞれがそれぞれの異なる命名システムに基づいているのである。

これは、<遺跡>問題の極みである。
カオスである。

これも以前から主張していることだが、発掘調査の原因となった事業用地や開発に規制されて設定した調査区といった「こちら側の都合」と、過去の痕跡対象いわゆる<遺跡>といった「あちら側の都合」については、明確に区分して考える必要があるのではないか。
すなわち前者を表示する「包蔵地」と後者の「遺跡」の使い分けである。
離散的分布を示す先史的<遺跡>では好都合なことに両者は一致していることが多い。
しかし連続的分布を示しそれらが短期間で錯綜した変遷を示す近世都市<遺跡>では、その不一致が顕著に表出することになる。
こうした不一致を意識しながら「包蔵地」を通り抜けない限り、私たちが目的とする<遺跡>にはたどり着けないだろう。


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