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加藤2022「記号化による文化遺産の植民地化」 [論文時評]

加藤 博文2022「記号化による文化遺産の植民地化 -収奪される地名・記憶・歴史-」『記号化される先住民/女性/子ども』青土社:81-109.

「世界考古学会議の第1回の大会では、考古学者による解釈が持つ歴史的・社会的な役割、そして政治性についての再評価が行われ、次のような問いかけがなされた。
・考古学の研究によって恩恵を受けるのは誰か?
・考古学者は、他人の過去を管理する権利を持つのか?
・西欧の考古学理論や手法は、過去の解釈にとってベストな方法なのか?
・調査の対象とされる先住民族に対して考古学はどのような(プラスの意味での)効果を与えることができるのか?
・先住民族へのダメージを抑止するための理論の構築や、方法の転換の取り組みは可能か?
この世界考古学会議から発せられた問いかけは、それまでの西洋中心の思想的な枠組みにとらわれていた理論や方法論を見直す契機となり、またその後の考古学と先住民族との関係を考える上でも重要な指標となった。」(83-84.)

世界考古学会議第1回大会の開催は、1986年である。
今から36年も前に投げかけられた5つの問いかけに対して、遅ればせながら私なりの回答を試みてみよう。

・考古学研究によって恩恵を受けているのは、第1に考古学関係者(研究者・埋文産業従事者など)、第2に考古学的な知的欲求を感じている一般市民(日本社会ではその多くはマジョリティであるいわゆる日本人)であろう。
・考古学者は、他人の過去を管理するような権利を独占的に持つはずもない。ところが本土における過去はマジョリティである日本人の祖先と考えられているためにこうした疑問を抱くこともない。ただ北(北海道)と南(琉球)において自らとは異なる「他人」(先住民族)が存在するために、コンフリクトが生じている。
・西欧の考古学理論や手法は、決してベストな方法ではない。しかし「日本考古学」ではその「西欧の考古学理論や手法」ですら、十分に咀嚼されているとは言い難い状況であり、「西欧の考古学理論や手法」を超克するためには一周遅れの自覚が必要である。
・調査対象の先住民族に対して、「日本考古学」はほとんどプラスの効果をもたらしていない。収奪した副葬品の返還もほとんどなされていない。過去の植民地や占領地から収奪した出土遺物の返還もほとんどなされていない。
・先住民族へのダメージを抑止する理論構築も方法的転換も日本ではほとんどなされていない(後述引用文参照)。

「学問の諸領域における脱植民地化をはかる動きは1950年代のフランツ・ファノン(『黒い皮膚・白い仮面』1970年、みすず書房)、1970年代のエドワード・サイード(『オリエンタリズム(上・下)』1993年、平凡社ライブラリー)に始まるが、そこからすでに半世紀以上が経った今でも日本の考古学においてこの問題に正面から向き合おうとする動きは多くはない(五十嵐彰『文化財返還問題を考える』2019年、岩波書店)。」(85.)

普段から感じている孤立感を外から表現して頂いた。
もちろん「日本考古学」の世界から一歩外に出れば、ファノンやサイードを始めとする多くの仲間がいる。

「考古学では、遺跡が出土した時間や空間を一定に共有するものを出土物の総体として、過去の集団の生活復元を行い、考古学的な文化として理解する。」(97.)

少し意味が通りにくい文章だが、どうやら「遺跡」を「遺物+遺構」(出土物の総体)とする旧来の認識が示されているようである。
私は<遺跡>について、こうした実体的な理解ではなく、あくまでも「単なる空間的な概念」(中谷 治宇二郎1929『日本石器時代提要』:101.)という理解をしている。
すなわち「遺物・遺構とその諸関係によって構成された構造体」(近藤 義郎1976「原始資料論」:23.)とでも言うべき「点の集合体」であり、言い換えれば単なる「<場>の使用痕跡」といった状態認識である。

筆者は北海道大学構内に所在する<遺跡>について、当初の「サクシュコトニ川遺跡」という「遺跡名称」が、1972年の札幌市政令指定都市移行に伴って北区に所在する39番目の遺跡という意味の「K39遺跡」と変更された問題を述べている。

「札幌市での遺跡名称の問題は、トゥアンの場の記憶という指摘を踏まえると単なる名称の合理化や整理というレベルの問題ではないように思われる。(中略)
このような事例を踏まえた上で改めて見た場合、札幌市の遺跡命名の仕方はどのように評価できるであろうか。札幌市という北海道で最も都市化が早くから進んだ地域であるという事実を踏まえたとしても、遺跡名からアイヌ語を消してしまったことは文化遺産の保護という視点から見ても深刻といえよう。」(96-97.)

これは単にアイヌ語に由来する<遺跡>名称かそれとも行政区単位の記号名称かといったレベルの問題以上に、考古学的な区切れない<遺跡>なのかそれとも区切らざるを得ない埋文行政的な「包蔵地」なのかという<遺跡>問題をめぐる議論と密接な関りを持ち、こうした問題認識を深めない限り真の解決には至らないだろう。

「一般的に考古学者は考古学が政治と関わることに抵抗を感じるようである。極力生きた社会と関係することを拒み、解釈の客観性を担保しようとする。考古学は政治とは無関係であり、政治は考古学から除外されるべきであり、考古学は過去についての事実を追究するものであるという主張がたびたびなされている。しかし、本論で確認してきたように、考古学もまた社会からの影響を受け、その研究成果が社会や関係する個人や集団に与える影響は小さくない。「過去は誰が管理しているのか」という問いに対して答えないわけにはいかない。」(108.)

これも繰り返し述べていることだが、「考古学は政治とは無関係であり、政治は考古学から除外されるべきであり、考古学は過去についての事実を追究するものであるという主張」もまた明白な政治的な主張であり、特定の政治的な態度表明であることに気が付いていない人たちが居るようである。
考古学に関わる人たちが日常的に行っているあらゆる行為で、政治的でないものなどただの一つも存在しない。
自らが調査した<遺跡>にどのような名称を与えるのかから始まって、かつて自分が目にした異国由来の収奪文化財の現状について放置(ネグレクト)することによる過去の不正義の容認に至るまで。


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