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及川2022「「遺構」論の今」 [論文時評]

及川 良彦2022「「遺構」論の今 -「遺構」とは-」『セツルメント研究』第10号、セツルメント研究会:3-36.

コロナ以前の2019年12月に開催された研究集会「縄文研究の地平2019 -層位/分層、遺物ドット・接合からみた遺跡形成-」における報告が、口頭発表時の事例部分を前半として「遺構の研究略史と定義」という後半部分が加筆されて刊行された。

「…五十嵐は従来の「遺構」と「遺物」という考古学の概念、あるいは「遺構」+「遺物」=「遺跡」とする認識を再検討し、新たな概念である「部材」を導入し、さらに考古学的痕跡研究の枠組みを示している。現在最も踏み込んだ用語概念を組み上げつつある。」(28.)

こうした認識(実際は口頭発表では示されなかった後半部分も含めて)が層位や遺物ドットや接合といったやや異質な論題群の中でなされたというのが、3年前の現実であり3年後の現実である。
研究集会のそれぞれの発表は、何やら「寄せ集め」といったイメージが否めない。
本来は「遺構論」だけを取り上げても、十分に1日を費やすに足るテーマのはずである。
考古学という学問の中心的な概念である「遺構」を語り尽くす機会が訪れるのは、いったいいつのことだろうか。

前半では、多摩ニュータウンNo248(採掘遺構)、中高瀬(縄文遺構か古墳遺構か)、中里峽上(柱抜き取り)、中田(不揃いな柱穴)、鍛冶谷新田口・豊島馬場(周溝建物と周溝墓)、多摩ニュータウンNo200(自然営為による偽遺構)、武蔵台(造りかけ)の事例が紹介されて、筆者の「遺構」に対する問題意識がどのように育まれてきたか、何事にも真摯に取り組まれる筆者の経験をトレースすることができる。
後半では、「日本考古学」において「遺構」という用語と概念が提起され定着していった経緯を丹念にトレースしている。
そして部材論である。

「五十嵐は従来の考古資料の概念や認識に「ずれ」があることに気が付き、その「ずれ」がどこに存在するのかという思索から、遺構/遺物という考古二項定理にあてはまらないものを部材として捉えなおしたのである。
五十嵐は、研究史の中からこうした「ずれ」の中に、先史中心主義を読みとる。それは先史考古学では部材論がなかなか見えにくく、一方近世や近現代考古学では遺物でも遺構でもないものが無数にあるからだ。先史考古学の概念ではとらえきれず、新たな概念が必要となるからだと述べる。」(31.)

畳は遺物なのか、それとも遺構なのかという問いに、考古二項定理に固執する人たちは一向に答えてくれない。
畳だけではない。瓦も煉瓦も間知石も礎石も碍子も、身の回りにある多くの<もの>たちの帰属が曖昧なままである。

「とはいえ、「部材」という概念はまだ一般的な考古学に広まっているとは言えない。しかし、すでに五十嵐が指摘するように、「遺構」は「構造物」の部分であり、「遺物」は「道具」の部分であるという理解が必要となっている。筆者自身未だに五十嵐の論を十分理解しきれていない部分もあるが、従来の遺跡・遺構・遺物概念から一度離れて、考え直す必要があることは間違いないであろう。」(32.)

考古二項定理が確立されたのは、ほぼ半世紀前のことである。
その頃には、近世考古学の「き」の字も近現代考古学の「き」の字も欠片さえ存在していなかった。
<遺跡>から畳が出てくることなど、想像を絶していただろう。
時代状況は大きく変わったのに、私たちの<もの>を見る認識枠組みは、旧態依然としたままである。

「新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。」(マルコ書2:22)

「五十嵐の部材論を採用すると、過去の「構造物」を解体しながら「遺構」と「部材」の関係性を明らかにしなければならない。つまり、「遺構論」は「遺構」のみの検討で終始するものではなく、「構造物」を前提とするならば、「遺構論」のみではなく、多くの場合は「部材論」も並行して検討していく必要がある。現状は「遺構」と「部材」(の?)関係性を意識することなく、「遺構論」や「遺物論」を議論している。今後、「遺構」・「部材」を明確に意識して分析・検討する必要がある、という認識が重要となろう。
最後に「遺構論」を考えるうえで、五十嵐により大きな概念的な枠組みが作られたという評価は間違いないであろう。」(32.)

太鼓判を押していただいた。有難いことである。
しかし「日本考古学」は、なぜこうした概念的な枠組みを論じることが至って少ないのだろうか。
個別の遺物や個別の遺構に限定された論文ばかりである。
方法論的な議論と言えば「型式論」ばかりである。
前回取り上げた『概論』という名前の教科書においてすら、遺構と遺物の狭間に落ち込んでしまった<もの>たちに対する視線が旧態依然であるというのは、なぜなのだろうか?
型式論だって累重論などと時間論の一部を構成するに過ぎないし、遺構論だって部材論などと資料論の一部を構成するに過ぎないだろう。
哲学や思想そして方法論を軽視する学問は、一見華やかに見えたとしても内実はスカスカ、今後衰弱の一途を辿るのは必定である。


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