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山本ほか2022『考古学概論』 [全方位書評]

山本 孝文・青木 敬・城倉 正祥・寺前 直人・浜田 晋介 2022『考古学概論 -初学者のための基礎理論-』ミネルヴァ書房

「本書は、考古学を学びはじめた初学者が主な読者となること(を?)前提としたもので、この分野に初めて接する人が、前提なしでその学問的内容を理解するのに適したテキストとして書かれたものである。学問としての考古学を学ぶ際に知っておくべき最低限の基礎理論の内容をまとめており、学習初年次の考古学の入門系授業に対応する内容が想定されている。」(山本:i)

70年代生まれの方が4人、50年代生まれの方が1人による総じて若い世代によって記された久々の教科書である。順に見ていこう。

「考古学の研究は一足飛びに資料の蓄積と研究成果の公表が進んでいる。」(同:ii)

この場合には、「一足飛びに」(suddenly)というよりは、「飛躍的に」(dramatically)ぐらいが適当ではないか?

「建物の一部を形成する屋根に葺かれた瓦は、その状態では遺構になる。しかしその建物が壊れ屋根からはずれた時は遺物となる。壁画は製作された壁に描かれている状態であれば遺構であるが、その壁が壊れて剥がれた状態で発見されれば遺物となる。このように遺構と遺物は、状況によってその位置付けが変わる資料でもある。」(浜田:42.)

「状態変容論」に、新たな事例が一つ付け加わった。

「遺構/遺物の定義として不動産/動産という性格規定が与えられ、遺構+遺物=遺跡という考古学的な二項定理が一般的な了解事項として受容されている。こうした二項定理を維持するために、構造物を構成する部材について、製作・使用の状態を保っていれば遺構の一部とし、遊離した状態であれば遺物とする「状態変容論」が提起されている。従来の遺物定義は、使用時の動産的性格をもって規定因としており「状態変容論」とは相容れない。「状態変容論」に基づけば、遺物定義の変更は避けられない。」(五十嵐2013「遺構と遺物の狭間」『日本考古学』第35号:113.)

もう10年ほど前になる。
10年経過しても「考古学的な二項定理が一般的な了解事項として受容されている」ことが確認できる。
ある瓦は屋根に葺かれずに倉庫に放置されたまま発見されれば「遺物」、屋根に葺かれたまま発見されれば「遺構」、屋根から外れて落ちれば「遺物」、屋根に葺かれた状態で少しずれていたら「遺物」、考古学者がひょいと持ち上げたらその瞬間に「遺物」になる。
それでは葺かれた状態を留めたまま倒壊した状態で検出されたら、果たしてこれらは遺構なのか遺物なのか。
まるでマジックである。
なぜこんなことになるのか?
それは、<もの>自体を見ないで、<もの>の状態ばかりを気にしているからである。
なぜ<もの>の状態ばかりを気にしているのか?
それは、遺構(不動産):遺物(動産)という考古二項定理を固守するためである。

「学問的に価値が高いデータとは、確実なデータであるということである。(中略)
繰り返すが、確実なデータをいかに多く集めて分析するのかが、研究には重要である。」(浜田:49.)

以前に記した論文時評【2022-04-29】を思い起こす文章である。

「大学が実施する学術目的調査でも報告書刊行の重要性は変わらないが、各大学が過去の調査成果の未報告事例を抱えている現状がある。」(城倉:91-92.)

「デジタル世代の大学生を読者として想定し」「大学で実践している学術調査のエッセンスをふまえて、考古学調査の基本的なプロセスを概説する」という箇所「考古学調査のプロセス」(74-93.)では、「考古学調査の内容と意義」から始まって「報告書の刊行」をもって終わっている。
未報告問題も重要だが、それだけでいいのだろうか?
発掘調査によって出土した資料の行方、所蔵や管理の在り方については、全く触れられていない。
あたかも「大学で実践している学術調査」で出土した資料は、調査を実践した大学で保管されることが当たり前とされているかのようである。
それで、いいのだろうか?
都道府県単位の財団組織などでは、調査地の市町村において受け入れ体制が整備されている場合には出土地の市町村に移管することが定着した慣行だと思っていたが。

「なお、大英博物館やルーブル美術館など、ヨーロッパにある世界有数の博物館の収蔵資料にはこの時期に収集された出土品が多いが、正式な学術調査によるものでないものが多く含まれていることもあり、資料の返還問題など現代につながる考古学上の問題となっている。」(山本:59.)

「ヨーロッパにある世界有数の博物館」だけの問題ではなく、日本にある博物館も著者たちが所属する大学の考古学研究室も抱える考古学上の大問題である。

「このような経過から、縄文時代研究において深鉢と呼ばれる器種と、弥生時代研究において甕と呼ばれる器種は、基本的に同じものだが名称のみが異なる。材質による区分に比べると主観的な区分に見えるが、対象が人間の身体に関わる実用品である限りは、時間と空間を超えて一定の共有点を見出せる。なぜなら、私たちの身体のサイズは数万年単位でさほど変化していないため、両手で握り地面に振り下ろす、一人で持ち上げるなどといった動作を伴って使われた道具であれば、使用方法を説明した文字資料が残っていない時代の資料でも、使い方の復元はそれほど的外れの議論にはならない。」(寺前:123-124.)

こうした文章で筆者が提出した問題、すなわち「同じものだが名称のみが異なる」のはなぜなのか、読者は納得できるだろうか?
ここで読者が知りたいのは、<もの>の「使い方」ではなく、私たちが<もの>に与える名称がいかに恣意性に満ちているかではないだろうか。

「地層累重の法則の適用によって、各層の形成時期に古い、新しいという時間的な差(新旧関係)が存在することがわかるが、各層に含まれる遺物に注目すれば、その新旧も判明することになる。つまり、D層に含まれる遺物はC層・B層・A層のものよりも古いといえるのである。考古学では、このように層位の上下によって年代を決めていく方法、すなわち層位学的な年代研究がある。」(浜田:151.)

「考古学における層位論に関する文章では、「下層が古く堆積し、上層は新しく堆積した」という地質学の「地層累重の法則」に言及して「下層の遺物は古く、上層の遺物は新しい」と述べられることがある。しかし前者の法則から本当に後者のような論述を導くことができるだろうか? そこには「日本考古学」独特の論理の飛躍あるいは逸脱があるのではないか。」(五十嵐2018「考古累重論」『日本考古学協会第84回総会研究発表要旨』:72.)

すなわち単純に「D層に含まれる遺物はC層に含まれるものよりも古い」とは言えないということである。

なぜなら「…製作時期から埋没時期までの時間差は、貴重品であればあるほど、その社会の規範や価値観によって左右されていたと予想できる。われわれが発掘調査で見出す資料とは、以上のような経過をたどって埋没したモノである点に注意が必要である」(寺前:136.)そして「…土器A・B・Cは埋められた時に同時に存在していたことは確かであるが、それぞれの製作が同時であったという保証はない」(浜田:262.)からである。

「文字を書く際に必要となる道具が、文房四宝とも呼ばれる筆・硯・紙・硯である。(中略)
 考古学で文房具を考える場合、硯が主たる研究対象となる。」(青木:218.)

たとえ硯が主たる研究対象であったとしても、「墨」がなければ文字を書くことはできないだろう。

「…日本列島内における製品の分布に、資料の総合的なライフサークル(原料採取から製作、流通、使用、廃棄までのプロセス)を合わせた検討が可能になる。」(山本:245.)

「サークル」(circle)と「サイクル」(cycle)は、似ているようで、その意味内容は異なる。
かのシファー先生も、極東の島国でこんなことになっていることを知ったら、さぞかし目を回すことだろう。


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五十嵐彰

授業を受けた学生から「見つかった時は遺構だった<もの>が、取り上げた瞬間に遺物になるっていうのは、おかしくないですか?」と聞かれても、「そういうもんなんだ」で押し通すのでしょうか?
by 五十嵐彰 (2022-05-20 08:06) 

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