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梶村1982「海がほけた」 [論文時評]

梶村 秀樹 1982「海がほけた -山口県長生炭坑遭難の記録-」『在日朝鮮人史研究』第10号、在日朝鮮人運動史研究会(1993『梶村秀樹著作集 第6巻 在日朝鮮人論』明石書店:108-126.所収)

「太平洋戦争の始まる直前の頃、山口県宇部市の長生炭坑(当時の吉敷郡西岐波村、床波駅の南0.4km、山口市と宇部市を結ぶ県道から0.5kmの地点)で大きな事故があった。長生炭坑も、沖の山、東見初等、宇部炭田の他の炭鉱と同様に海底炭鉱であったが、岩盤が崩れて海水が侵入し水没してしまったのである。何百人という規模の犠牲者を出し、しかもその大半は朝鮮人労働者であったと思われるが、当時事故の公表は一切禁じられ、その事実すら殆ど知られていない。
縁あって、この事故を直接体験し、九死に一生を得た李鍾天氏のお話を聞くことができた。」(108.)

地道な市民運動がなされている。
取材レポートが公開されている。

「それでもって一銭もなくなってしまってご飯も食べられないようになって、どうしようかと思って。家へ帰る面目もないし、また怒られるし。そしたら「山口県長生炭坑 二百人募集」とかいたきれをはっとるのをみて入って行ったら、身体検査してみてくれというで、そして、満点やいうて、その時は年も若かったし、もうすぐ、あしたあさって出るって。で、あしたあさってまで食べるものがないと事情を全部話したです。そんならね。あしたあさってまではここで食べなさい、ご飯代はこっちで払うからって。
それで、200人募集ができんで180人位になってしまった。もう募集にきた人も6人か7人きて一緒懸命あちこち市役所とか頼んで集めてもできんもんで、それでもういいあしたは出発って。それで旅館に泊って。服もね、わしは朝鮮服着てきとったもんだからね、薄い国防服を一着くれたです。その時ちょうど三月なかばころやった。なんぼ若いいうても寒いで、朝鮮服の上にそれを着た。いゃあー、山口県長生炭坑っていったらどのへんか、わしは初めに新川におって炭坑までははいっていないけれども、話にはきいとるけれども、炭坑いうたら危ないとこじゃないかなあって思ってきたです。」(110.)

「ないしろ水がもるんだから、作業服はもうびっしょりぬれとる。中は寒くない暑いけれども、上がったら寒いから、その服を、きょう着てたのを帰ってきて洗って干しとって、新しいのをあした着て、交代交代にせんといけんちゅうで、作業服を二着ずつくれたですよ(しかしやがて一着きりの支給になり、完全にすりきれてからでないと新しいのをくれなくなった)。そいだもんで、夜勤にいって帰ってきて昼になって洗って干しとったら、天気の時にはすぐ乾くで気持ちいいけれど、雨がふったりしたらもう乾かんでしょう。ぬれたもんをそのまま着るんですよ。
それで着て出る時は、ちょっと歩いて事務所までいくんだが、両側はね、取締り(ここでは坑外の監視専門の「取締り」と坑内監督の「どうろう」とが区別されていたらしい。また「労務」は募集専門でまた別であった)が木刀をもってちゅびちゅび並んどるだよ。もしか逃げるかと思って。」(113.)

「それで、昼ご飯食べて座っとったら、もう眠たいで眠たいでたまらんようになる。空気が悪いで。空気がないんやから。そんでご飯食べる時に見たらね、そばに立っとったこんなでっかい柱が折れるですよ。そいでわしゃ天井がほけるかと思うてびっくりして逃げるつもりだったけど、なれた者は「あれは平気、上が重いで自然とそうなる」いう。わしも一年働いたけど、なれたらもうどうもなかったです。
たまには、もう「水がほけた」ちゅって、向こうから人間が他のキラから大勢本線へ逃げてきよるですよ。「天井がほけた、水が出る」いうて道具も何も投げ捨てて。それで分からんで一緒に逃げたりしとった。そいで上へあがったらね、もうものすごくたたかれるです。「貴様、天井もほけてないのに、誰から聞いて逃げたか」って。「水がじゃんじゃん出よるいうから」っていうと、「お前みたか」って。「いえ、わしはみてない」いうと、「ひとのことを聞いて逃げてたまるか」っていう。「この家みてみい。この天井よりまだ丈夫になっとる。絶対心配ない」と。そういうふうに何回もだまされたんだから、もう逃げたりして上へあがったらたたかれるし。
それがしまいの時にはね、本当にほけたですよ。それも奥でほけたんなら、人間がだいぶ助かったんですが、坑口の横の切替え坑でほけた。ここでほけたら、こっちへ水が流れてくるですよ。そん時は、ちょうど昼ご飯食べる時で、よびりんがりーとなって、赤い灯ふりながら、「早く逃げなさい。早くいかないと生命が助からん。海がほけとるで」いう。で、みんながいうのに、「えーい、もう一回や二回じゃない。もう何十回もだまされたんだから、上がったらまた、たたかれる」。そして、配給時代で腹がすいてる時だから、一緒懸命ご飯食べよる。逃げる口は分らんし。
僕は相棒一人つれていたんやが、相棒は「ご飯食べていこうやもう」って。「ご飯もくそもあるか、本当かもう。前はよびりん鳴らんやったけど、きょうは赤旗ふってるのみれば、確かにほけてるのはまちがいないんじゃ」いうて。私は素手で逃げたけど、私の相棒はね、ホサキ、つるはし、デミとかね、あれは全部自分の金で買うですよ。それでもったいない、いうてかかえてからいく。そんなもの、かかえてたら、もう駄目ですよ。そいで本線に上がったら、キャップの電気でみたら、もう水がこんなとこまで上がってきよるですよ。そんとき、ふしぎにわしのキャップが水につかっても、きれなんで、よけい明るくなって、それで生命拾いしたんだな。
でもそんときは、まだ上まであがるのに一キロ半位あるもんで、もう助かる方法はないな思うて。逃げるいうても、あちこち人間が全部出てあんな広い本線で逃げるところがないですよ。年寄りがね、こけたらね、もう上を踏むんですよ。踏まれてからもう起きること、できないんだから。私はそんとき考えてね、本線はもう逃げられんから、よく切り替え坑ってのがあるんですよ。それは昔の坑道をずーっと本線の横につないであるんだけど、そこはみんなそこへいって大便もするし、汚いんですよ。ものすごくくさいでね。そこで、うちの相棒とここは逃げられんから、そこへいこうって、汚いし、どぶどぶしているけど、そこを走ったですよ。そこで走らんやったら、もう生命助からんやった。それで、ちょっと行ったら、もう水がへそのとこまで上がってるですよ。上がったら、もう走りきれんで、この炭坑はね、坑口の方は低いで、向う奥の方は高いんですよ。だから向ういった水が逆戻りするんだから、それで坑木の大きいのが流れてくるんですよ。それに乗った。うちの相棒にも乗りなさいって。見たらそのへんに乗ってる人がたくさんおるんだから。もう上いっぱい坑木が浮かんどるで歩かれん。なんせもう、ここから玄関まで7,8メートルいったら、助かるのにね。ここまでいかれんで、死んだ人もおるんから。」(116-7.)

「逃げた時は三人づれだったらしい。ちょうど1年たったというから、1942年の3月ということになる。八幡へきてから、日本に姉や兄弟のいる者は迎えにきて別れたという。逃亡は、いい炭坑ならあまり逃げないが、たこべやと同じ長生炭坑ではとても多く、半分位は逃げた、一緒にきた200人が一年位のうちに100人位も逃げていたという。それであとからもどんどん募集してきていたという。逃亡に失敗してつかまったら半殺しにされる。冬にまっ裸にしてたたく。意識がなくなると水をかぶせ、精神が戻ったらまた「お前、やったことが分かるか、連れてくるのに費用どれ位かけているか」といってたたいたという。つかまった人は5人に1人位はいる。たたいた後は、二週間位は寝せておく。病院にはいかせない。たたくところは見せしめに見せる。それで死んだ人がいたかもしれないが、それは見せなかったという。」(122.)

「李鍾天氏が長生炭坑を離れて以後の話も問題を投げかける内容を多く含んでいるが、ここで一旦筆を止めることにしたい。炭坑を逃れえたとはいっても、考えてみれば別の大同小異の労働の場に移っただけ、24時間の物理的拘束がなくなったというだけなのである。逃亡した多くの人々が同様だったろう。故郷に帰れたわけではないのである。特に戦争末期になると、人手不足に悩む各事業体が逃亡者と知っていても公然と雇用するほど実は統制がくずれていたということ、さらには朝鮮人を末端に使って他の事業者から労働者を引き抜いたりさえしていたことが分る。そして何かのはずみでそうした違反が表ざたになったときには、その責任を末端の朝鮮人がしょわされるのであった。波乱の生涯のすえに、故郷に錦をかざったわけでもなく、酷使のゆえに早く痛んだ身体以外に何が残ったわけでもない。回想の一つ一つのひだごとに刻みこまれている李鍾天氏の想いを、私たちは正確に受けとめなければならないと思う。」(126.)


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sakamo

奇遇です。
昨年末、長生炭鉱跡に行きました。
海に突き出た2本のピーヤ、見たことない景観で強烈な印象でした。
追悼広場も敷地面積以上の存在感で、国内にこのような場所があること、それも山口県内(!)にあることに驚きというか、どこか救われた気持ちになりました。
by sakamo (2022-03-12 17:42) 

五十嵐彰

「ほけた」という言葉の意味が分からなくて、関西出身の人に聞いても分からなくて、どうやら「破れた」という意味らしいです。
日本の各地に、こうした傷跡が残されています。
日本の各地の博物館・美術館・大学に、こうした傷跡を持つ「瑕疵文化財」が収蔵されたままです。
by 五十嵐彰 (2022-03-12 20:13) 

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