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吉田2021「世界の趨勢から見た、先住民族の権利保護及び謝罪の理由・意義」 [論文時評]

吉田 邦彦 2021「世界の趨勢から見た、先住民族の権利保護及び謝罪の理由・意義 -民法の観点から(人類学との学際交流を踏まえつつ)-」『北大法学論集』第72巻 第1号:1-48.

本稿は、2020年6月26日開催「北大遺骨返還謝罪要求教員有志勉強会」および7月11日開催「先住民族問題研究会」における報告に基づく。

「北大は、琴似コタンのアイヌを駆逐して、同大学ができていることを記そうとしない。しかもアイヌ遺骨盗掘について、謝罪しようとしない。これに対して、今アメリカ合衆国の著名大学で、奴隷制との関わりで(広い意味での)補償がなされているのと、対照的である(少なくとも、過去の奴隷制との関わりの不正義の事実を明らかにし、関係者の名前を削除したり、紋章を変えたり、さらには、関係者(子弟)に「優遇措置」(affirmative action)を行うなど)。「教育機関」として、どうしてこれを機に新たな動きを起こさないのか。何故、過去の不正義に未だ目をつぶろうとするのか、ここでは批判的に考えてみたい。」(7.)

過去に行なった自らの過ち・不正義をそのままにしておくと、それは現在の過ち・不正義になるということが、どうして分からないのだろうか。

「ところで、北大のアイヌ問題に関する謝罪の是非などという、アイヌ民族法政策問題は、本来ならば、法学・政治学の教員がリードすべきである。しかし実際にそうなってない(有志教員における法学部比率の少なさに注意されたい(謝罪署名したのは、60名以上いる法学部教員の内、5名未満である。むしろ文学部(文学研究科)にイニシアティブがある)ところにねじれがある(その理由はどこにあるかを考えるのも興味深いが、法学部教員は中央・地方政府の委員会メンバーとしての繋がりも一因であろう。つまり、行政とのコミットメントがあると、学問的自律性の喪失をもたらしかねず、「世界標準」とかけ離れた政府のアイヌ政策を自由に批判できなくなり、むしろその「正当化」の役回りを演ずるということにもなりかねない。」(7.)

いわゆる「御用学者」という問題である。

「憲法学者は、どのような寄与をしたのか。日本国憲法には、一定の時代的制約があり、そこから演繹的にアイヌ政策を導くことにも問題がある(例えば、個人権しか基本的人権とは認められないとの考え方が、近代憲法学者から出される(既に1997年のアイヌ文化振興法の基となった有識者懇談会報告書にそれは出る)が、団体的権利を認める民法学からは、理解しがたいものがある。」(8.)

考古学の世界でも土器研究と石器研究では、殆ど別世界である。
法学の世界でも憲法学と民法学とで、こうした事柄に関する交流はないのだろうか。

「…不法行為法としては、アイヌ民族に対してこれまでなされたことは、「基本的人権の蹂躙に関する不法行為」に他ならない。これは、先住民族集団に対してマスとしてなされた不法行為で、最も深刻な部類であるが、何故かこれも従来閑却されてきた(不法行為法は、民法でも最も議論が多い領域であり、交通事故、医療過誤、公害、薬害、製造物責任など多々講義でも論ずるが、「基本的人権蹂躙」がマスとして問われる不法行為類型について議論が欠如していたのは不思議というほかはない)。しかしこの種の不法行為も、「補償」(reparations)問題といわれて議論されており、国際人権法の進展とともに(とくにこの20~30年ほど)定着しつつあるが、比較的新しい(我が国においては、アメリカと比較してもまだまだ貧弱である)。」(12-13.)

「基本的人権の蹂躙に関する不法行為」は、植民地朝鮮において日本が行なったことと全く同じである。
「不法行為法」として両者を対比しつつ論じる必要がある(例えば吉田 邦彦2004「補償問題総論 -不法行為・所有論との関わり-」『国際人権』第15号、吉田2006『多文化時代と所有・居住福祉・補償問題(民法理論研究第3巻)』有斐閣:262-303. 所収)

「アイヌ法政策の経緯を振り返ると、2008年国会でアイヌ民族を先住民族とする決議があったが、2009年有識者懇談会報告書で、国連の「補償アプローチ」は否定された(そしてこれは、国連の立場の否定、民法の不法行為法の立場の否定であり、「世界標準」に隔たる立場である。そしてこれが、その後のアイヌ政策の出発点として、根本的な問題点を孕むことになる。これが「日本特殊の文化アプローチ」となっており(法的・政治的問題には踏み込まないし、踏み込めない。踏み込むと、歴史的不正義が出るから)、2019年の「アイヌ施策推進法」もこの前提の上にできている。」(20.)

日本国政府、特に自民党政権は、近代に日本が行なった歴史的不正義を直視できないのである。

「どうして日本のような先進諸国の一員であるはずの国家が、「世界標準」からかけ離れているのであろうか。先住民族政策の先住民族の地域的実現のシステムが、東アジア・東南アジアにはなく、地域的な国際人権法の実現が不十分であることも関係しているであろう(不満があるアイヌ民族側は、そのことのために、遠く国連まで行かなければならないようなことでは、南北アメリカの先住民族が、地域的な先住民族の権利保障のために手近に人権委員会、人権裁判所に不服申し立てできるのとは事情が異なることをここでは指摘しておきたい。戦後補償問題でもわかるように、日本社会は、歴史的不正義への取り組みが苦手だということもあろうが。)」(22.)

これはもはや苦手とか得意といったレベルの問題ではないだろう。

「…盗掘遺骨の問題にしても、数十年前の児玉作左衛門博士らの盗掘行為だけの問題ではない。北大側が、先住民族の遺骨の共同体所有の概念を拒否し(応ずるにしても、拒否を前提とした和解によってであり、アイヌ民族側は、提訴せざるを得ない)、大学そして(今後イチャルパもなされるとも限らない)ウポポイの象徴空間慰霊施設に集約して分散的な各アイヌコタンのアイヌ墓地から分別隔離して、管理されること自体により、先住民族側への不法行為は今なお継続していると考えるべきであろう(その意味で、北大側が、消滅時効を援用するからという理由で補償請求(損害賠償請求)をしないとの市川弁護士の判断には理解しかねる。そしてこれが弁論主義的な先例となってしまい、一連の遺骨返還の和解においても、補償的請求が全て欠落してしまっている(その結果、回復アイヌ遺骨の管理費用面での問題を抱えている)ことも、逸するべきでは無いだろう)。」(38-39.)

「象徴空間慰霊施設」が空っぽになる、すなわち全てのアイヌ遺骨が「あるべき<場>である」それぞれの地域に返還されるのは、いったいいつのことなのか。

「さらに問題となし得るのは、1870年代のアイヌ地の奪取のプロセス(すなわち、1872年北海道地所規則7条から1877年北海道地券条例での官有地三種組み入れのプロセスである)での先住土地権の侵害の不法行為は、今に繋がる不正義として補償請求があってもおかしくない(所有権は消滅時効にかからないというのは今も変わらない定説である。他方で、取得時効の反射としての消滅という事態はあるが、だからと言って、補償請求の主張を否定するものではなかろう。明治維新直後の日本国による先住民族からの土地奪取は、「国家無答責」などと言う理屈は、通用しないであろう。戦後補償問題などで言われるように、まさしく時際法的な、不法行為法的再評価が問われており、先進諸国で先住民族への土地返還(例えば、カナダ、オーストラリアなど)がなされているのは、それ故であることに我が国も気づくべきである。」(39.)

「北方領土」の返還についても、いったい誰に返還するのかが議論されなければならない(例えばアイヌ・モシリの自治区を取り戻す会 編1992『アイヌ・モシリ -アイヌ民族から見た「北方領土返還」交渉-』御茶ノ水書房、萱野 志郎2019「先住民族の日ロ交渉参加を求める」『現代の理論』第44号など)。

「最後に、「大学のあり方」であるが、やはり過去の先住民族への不正義は、克明に教育し、その道義的責任を真摯に考えるのが、研究者であり、教育者の役割であろう。その意味で、広義の「補償事業」に従事すべきである。(アイヌ民族に対して)「謝罪」するにしても、その前提をなす、歴史的不正義の中身の理解、そしてその謝罪の態様が重要であり、先に述べた、補償プロセスに即したものである必要がある。
そして言うまでもないが、批判的な議論(それは「自由な表現、意見・見解の発表空間」ということである)を封ずる「権威主義」的立場は、大学にはなじまない。北大のアイヌ先住民センターも、諸外国のような健全な姿に舵を切るべきであろう(研究者の個人主義を確保すればよいというものでもなく、「大学の役割」には従来、取り巻く政治構造のコンテクストで、明治維新以来の植民地主義的体質があるとしたら、それをどう変革するかを組織的に考えることも必要であろう)。このことは、決して北大だけのローカルな問題ではなく、広く大学に身を置く大学人が常に考えるべきこととして述べた次第である。」(48.)

日本人類学会を構成している会員たちはその多くが大学に所属している教員たちと思われるが、こうした提言に対してどのように対応するだろうか。
もちろん日本考古学協会も同じである。

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