SSブログ

大貫ほか2007「牧羊城をめぐる諸問題」 [論文時評]

大貫 静夫・鄭 仁盛・石川 岳彦・中村 亜希子・古澤 義久 2007「牧羊城をめぐる諸問題」『中国考古学』第7号:77-96.

「牧羊城は1910年(明治43年)、12年に当時京都帝国大学教授であった浜田耕作らが小規模な調査をおこなっており、その後、1928年に東亜考古学会による第2回目の調査地となり、発掘がおこなわれた。東亜考古学会と関東庁博物館との合同で調査がおこなわれた。原田淑人らにより整理され、1931年に東亜考古学会より大部の報告書として刊行されている。現在東京大学考古学研究室には土器片、瓦片を中心としたものが残されている。土器、瓦や青銅器の優品はなく、その一部は現在の旅順博物館に展示されている。」(78.)

「陶瓦質の建築材料には主に軒丸瓦、丸瓦、平瓦、磚がある。これらの遺物は合わせて500点以上を数え、牧羊城から出土した遺物の中でも極めて数量が多い。しかし、それらは破片資料が大多数を占め、特に現在東京大学考古学研究室に保管されているものには完形に復元できるものはほとんど存在しない。ここでは旧報告書[東亜考古学会1931]に記載があるが現在は東京大学考古学研究室に保管されていないものも含めて出土した瓦(軒丸瓦・丸瓦・平瓦)を概観し、その年代を考察する。」(87.)

ここから読み取れることは、何だろうか?
東大にあるのは土器片や瓦片といった破片資料ばかりで、優品などの完形資料はすべて現地にある。
東亜考古学会が1928年から31年にかけて考古誌を作成した時には、それ以外の資料(完形品)もあったが、今は存在しない。

このことから読み取れることは、何だろうか?
1931年から2007年の間に、東京大学から現地(旅順博物館?)に完形資料を返還した可能性である。
しかしそれが本当なのか、本当だとしたら何時なのか、どれほどの遺物が返還されたのかといった詳しいことは、本論において一切触れられていない。
なぜ触れないのだろうか? こうした事柄も「牧羊城をめぐる諸問題」の一つではないのか?

そもそも牧羊城出土遺物は本来「東亜考古学会」の所蔵品であったはずである。
それが何時、どのような経緯で東京大学の所蔵品となったのかについても、一切述べられていない。

「さらに発掘後の遺骨と副葬品の保管状況については、人の死と関わる深淵かつ繊細な問題である点が十分に配慮されずに、必ずしも誠意ある対応がなされてこなかった。このことについて研究者は深く反省し、今日社会的に批判される状況にあることをしっかりと受けとめるべきである。
上記のようなこれまでのアイヌの遺骨と副葬品について行われてきた調査研究や保管管理の抱える課題について、学術界と個々の研究者は人権の考え方や先住民族の権利に関する議論や国際的な動向に関心を払い、その趣旨を十分に理解する努力が足りなかったことを反省し、批判を真摯に受けとめ、誠実に行動していくべきである。今後、研究者には、研究の目的と手法をアイヌに対して事前に適正に伝えた上で、記録を披歴するとともに、自ら検証していくことが求められる。学術界と個々の研究者は、このような検証なくして、自らの研究の意義や正当性を主張する根拠が希薄となることを自覚しなければならない。」(北海道アイヌ協会・日本人類学会・日本考古学協会2017『これからのアイヌ人骨・副葬品に係る調査研究の在り方に関するラウンドテーブル報告書』4.)

「研究行為は、学問の自由の下に行われるものであるが、研究行為やその成果が研究対象となる個人や社会に対して大きな影響を与える場合もあり、倫理的または社会的に様々な問題を引き起こす可能性がある。すなわち、学問は社会に対して説明責任を負うこと、また研究対象と学界に倫理的責任を負うことを自覚する必要がある。研究対象となる個人や社会の権利は、科学的及び社会的成果よりも優先されなければならず、いかなる研究も先住民族であるアイヌ民族の人間としての尊厳や権利を犯してはならない。」(『アイヌ民族に関する研究倫理指針(案)』)

アイヌ遺骨と副葬品に関する研究指針と研究倫理指針(案)であるが、こうした研究指針と研究倫理指針は何もアイヌ遺骨と副葬品に限定される訳ではない。墓地からの出土品だけでなく、集落遺跡や儀礼遺跡などからの出土品にも適用されることは「児玉コレクション」と称される資料体を想起するまでもなく当然であろう。
そしてこうした指針は先住民族であるアイヌに限定されず、朝鮮半島や中国大陸でなされた植民地考古学についても適用されるべきことは、「北海道大学人骨事件」と称される1995年7月に発見された6体の遺骨の在り方を想起するまでもなく当然であろう。

同じ「中国考古学」といっても、東亜考古学会によって1928年に発掘されて1931年に報告された「牧羊城」出土資料を、河北省文物研究所が1996年に報告した「燕下都」や遼寧省文物考古研究所が報告した「遼寧凌源安杖子古城」と同等に扱うことはできないのである。
同じ「外国考古学」といっても、戦時期に日本人考古学者が朝鮮半島や中国大陸で調査した「東亜考古学」の考古資料を、日本人考古学者がペルーやメキシコで調査した「中南米考古学」と同等に扱うことはできないのである。

nice!(2)  コメント(0) 
共通テーマ:学問

nice! 2

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。