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野田1998『戦争と罪責』 [全方位書評]

野田 正彰 1998『戦争と罪責』岩波書店

「いつしか私は、侵略戦争を直視せず、どのような戦争犯罪を重ねたかを検証せず、否認と忘却によって処理しようとする身構えが、いかに私たちの文化を貧しくしてきたか、考察してみたいと思うようになっていた。それも、罪の自覚と共に戦後を生きてきた少数者の精神を通して、多数者の影を浮き上がらせたいと考えたのである。」(11.)

「…戦争にかかわった日本人の罪の意識を掘りおこし、その分析を精緻に行うことによって、私たちは二十世紀の意味をアジアの人々に伝えられる。今なお残された罪の意識こそは、私たちの貴重な文化であり、罪の意識を抑圧してきた日本文化のあり方を通して、私たちは自分の内面の顔を知ることができる。」(13.)

何度読んでも、その度に新たな気付きを得ることができる稀有な本である。
それは、本書が真理の一端に触れているからだろう。

「平和は理性によって維持される。侵略戦争は、得られるものよりも失うものの方があまりに大きい。割にあわない。また、多くの人間を殺す行為は不快である。そう考えるのは、理性に基づく。しかし戦争ではいつも、非合理的な衝動が理性を覆し、もったいぶった論理をまとって燃えあがる。戦争と戦争の間、注目されてこなかった攻撃性が集団の回路を通して煽られる。このような戦争のメカニズムに対し、戦争反対の平和運動だけでよいのだろうか。理性の強化は、無意識の衝動への防禦になり得る。それと同時に、攻撃性についての積極的な分析も必要ではないか。」(189.)

南軍旗や南ベトナム旗を振り回して連邦議事堂に乱入する暴徒たちの映像(キャピタル・ライオット)を見ながら、この攻撃性はどこから来るのかについて考える。あるいは不正選挙を声高に主張して裁判を連発して、果ては「トンデモ」としか思えない陰謀論の跋扈を見て考える。
海の向こうばかりではない。こちらでも県主催の文化庁補助事業である国際芸術祭に対して、暴力的な電話クレーム攻撃をしかけて中止に追い込み、果ては知事のリコール運動を起こして、署名捏造の自爆騒動を引き起こす攻撃性について考える。

「戦後世代(戦後生まれだけでなく、私のように戦中に生れても、戦後に自我形成をした者も含む)が父母や親族から聞いてきた戦争は、戦死の通知、空襲の恐怖、疎開、戦中・戦後の食糧難などであった。このような話は、親の世代が好んで話した。困難を乗り越えてきた自己肯定の感情と共に、それは伝えられた。しかし親たちは、決して自分が行った侵略について語らなかった。こうして育ってきた戦後世代が、例えば核戦争反対を唱えたとき、異国の人から「あなたたちの側は、過去、何をしたのか」と批判され、言葉を失う。
反論、弁明はいくつかある。「責任は行為者がとるものであり、戦争にかかわらなかった自分に個人としての責任はない」という、まず一見正しい前提に立ち、その上で論理を飛躍させる。だから、「私たちの社会、私たちの国家が、いつまでも戦争責任を追及され、補償金を払わされるのはたまらない」と。あるいは、攻撃的に、「日本の非をあげつらう日本人がいるから、他国から付け込まれる」と身構える。
しかし、そう反論しながらも、一方では分かっている。私たちが生活する日本社会は、戦時、戦後を問わず、持続していること。また戦後世代は、戦争を行った親に育てられ、彼らの文化を摂取してきたことを否定できない。個人としての戦争責任はもちろんないが、侵略戦争にのめり込んでいった社会や文化の同一性、そして国家の責任まで否定できない。
その上、戦後世代の精神には一抹の不安がある。親の世代の文化を摂取して育ったとは言え、部分的に批判もし、肯定もしてきた。しかし、戦後世代は親の本当の姿を知っているのだろうか? 太陽に当たった夜空の月の半面を月と見ているだけで、影の半面を知らないのではないか? 半面だけの父母の考え方、生き方を受け入れ、あるいは反発することによって作られてきた戦後世代の精神には、どこか虚偽があるのではないか? 虚偽とまで言わなくとも、表面的な浅薄さが付きまとっていないか? 私たちは豊かに感じ、深く考え、他者と交流できる自我を形成しているだろうか?」(301-302.)

私の父親は今年91才になる1930年生まれだが、戦争中の話しは学生の頃に軍事訓練として木製の銃で練習しているうちに戦争が終わってしまったといったことぐらいしか聞かされることがなかった。

不当にもたらされて今なお日本国内にある様々な文化財が多くの人たちの努力によってようやく元にあった場所に返される時に、日本国政府をはじめとして返す側は頑なに「返還」という用語の使用を拒み、「引き渡し」などという訳の分からない言葉に固執する。
どうやら賠償などに関連する法的責任を問われることを危惧しているようである。
なぜそんな姑息なことに拘っているのだろうか?

「従軍慰安婦」という用語から「従軍」という言葉を取り外すと「軍隊性奴隷」という実態が如何ほど変容するのだろうか? 
自らが犯した罪を問われるのならば、堂々とその罪を認めて、何がなされたのか、何をしたのかについて、明らかにすべきではないのか。

「父は、国家が侵略戦争について謝罪しようとしないとき、一人の人間として謝罪した。71年の生涯を戦争への謝罪で締め括ることによって、「させられた戦争」から「した戦争」に変えた。それは、「させられる人間」として生まれたが、「する人間」、判断し行為の責任を引き受ける人間として死んでいく、と表明することでもあった。」(316.)

私たちは、どのような人間として死んでいく、のだろうか?

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橋本

攻撃はどのようにして止むのか、と思うのですが。
by 橋本 (2021-05-13 19:19) 

五十嵐彰

「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」(ヨハネ書8:7.)
by 五十嵐彰 (2021-05-14 06:13) 

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