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山田2021「アカデミック・マインド」 [論文時評]

山田 しょう2021「アカデミック・マインド -研究捏造の心理学-」『旧石器考古学』第85号:3-8.

「アカデミック・マインド」、訳せば「学問をする心構え」といった辺りであろうか。

「2000年11月の前期旧石器遺跡捏造の発覚からはや20年を迎えた。四半世紀にわたり、善意のアマチュア考古学者を装いつつ捏造を続けた藤村新一は特異な人物に思えるかもしれない。しかし、その後発覚した他分野における研究不正や、疑わしい仕事をする研究者の例を参照すると、このような行為者の人物像には共通した特徴がある。それゆえ、同種の不正が考古学においても繰り返され得るものであることに注意を促したい。」(3.)

冒頭にマタイ書7章の聖句を引用しつつ、「終わらない悪夢」と題する文章である。
著者の危機感をひしひしと感じることができる。
今から20年前は、ちょうど国分寺市で大規模な旧石器<遺跡>の調査に携わっていた頃であった。隣県の秩父市にまで調査の成果が及び、身近に感じてもいた。発覚のニュースに接して、もし調査中の最下層に石器を差し込まれていたら、どうなっていただろうかと背筋が寒くなった覚えがある。

ベル研究所のシェーン事件(2002年)、ソウル大学の黄 禹錫ファン・ウソク事件(2005年)、理研のSTAP細胞事件(2014年)といった他分野における研究不正・捏造事件と対比させながら、「アカデミック・マインド」すなわち学問をするに際して求められる性向、捏造研究者の性向、捏造が発覚した後の関係者の反応などが記される。

ベル研究所や理化学研究所などの例を念頭に、捏造などの学問的不正行為は、その学問分野の研究水準に関わらず引き起こされるとされている(3.)。もちろんそうした側面はあるであろうが、こと日本の前期旧石器捏造事件の場合には、日本の旧石器研究ないしは「日本考古学」特有の性向が呼び込んだといったことがあったのではないか。
「日本考古学」には本論のような考古学そのものを学問一般の在り方から位置づける学問論あるいはその資料操作の在り方に関する議論さらには発掘などによって得られた事象から結論を導き出すプロセスに関わる解釈など学問として最低限求められる方法論を軽視する傾向が抜き難くあるのではないか。

少し長くなるが、最近のこんな発言も改めて紹介しておきたい。

「その観点からすると、日本考古学の制度的な柱の1つである、毎年の考古学を回顧と展望するドキュメントの構成に、日本考古学の根本的な問題が現われていると思います。日本考古学協会の『年報』、それから『史学雑誌』の「回顧と展望」、それから『考古学ジャーナル』のそれですが、それに「考古学理論」という項がないことです。私としては考古学理論の下位に、例えば五十嵐さんがおっしゃったような遺物分析論であるとか、それから社会論であるとか、それから人類学との接続であるとか、そういうこともジャンルとしてしっかり分化すべきだと思うんです。そういうことが、too much と言われかねないところがあったとしても、少なくとも理論、また、その下位に分化するべき項目が、日本考古学の中に制度的に存在していない。そのこと自体が逆に私たちのメンタリティーを規定しているというか、理論的な問題については議論しなくてもいいんだ、理論的な達成については批判的に継承しなくてもいいんだということになってしまっている。」(溝口  孝司2020「日本旧石器学会 第17回シンポジウム「旧石器研究の理論と方法論の新展開」:討論の記録」『旧石器研究』第16号:127.)

この辺りのことについては、かつて記したレヴュー論あるいは「動向の動向」といった文章も参照されたい。

理論的方法論的議論の軽視は、言い換えれば発見主義の蔓延・編年至上主義ということになろう。
何よりも新たな発見を追い求める、最古の石刃石器群や日本列島への人類の到達といったことには関心を寄せるが、本論の掲載誌において同じ筆者が記しているような他者の刊行した考古誌に対する批判的な論評(山田 しょう2021「ウサギ・石器・イヌワシ? -青森県尻労安部洞窟の語るもの-(前編)」『旧石器考古学』第85号:65-84.)といった第2考古学的な研究(考古誌批評)そしてそのことに対する反応は驚くほど低調である。

「捏造発覚後1年以上経った時、ある研究者が筆者に「宮城県の人達は今でも彼を『藤村さん』って呼ぶんですね」と驚きをこめて語った。「善良なアマチュア」の”魔法”はそれだけ強かったのである。発覚後20年を経た現在でも、彼への批判を諫め、慎むことに良識と品位を感じる人たちに出くわす。
こうした反応は不正・犯罪行為に対する一般的に見られる反応で、倒錯した正義感(つまるところ現状の維持に寄与する)、自分には他人と異なり真実が見えると自負するナルシズム(実は自分が最も騙されている)、あるいは不正行為を客体視できず、批判を個人攻撃と区別できない未熟さ(自分の行為に対する甘さにつながる)などを、不正行為者の言動が巧みに捉えるからなのかもしれない。」(6.)

「アカデミック・マインド」すなわち「学問する心構え」からすれば、こうした勘違いも「日本考古学」には多々散見される。
自分が築いた地位や業績を守るために言うべきことも言わずに、あるいは直接批判を受けているにも関わらず一切応答せずなかったことにしてしまう、周りもその道の権威や上司に忖度して気に触るようなことには触れずに一様に発言を控える(わきまえる)、学問的な批判に対して「もっと寛容に」と諫める、たまに権威が応答すると感情的に逆切れするといったことが、大小さまざまなレベルで溢れているような気がする。

「問題を起こす者を見ながら、事なかれ主義で看過したり、市民が盛り上がるから、と野放しにしたり、積極的に利用したりすると、取り返しのつかない結果を招くことになる。
「世界は悪を行う者によってではなく、それを傍観する者によって破壊される。」(アルバート・アインシュタイン)」(8.)

自己陶酔的に過去を眺めて漫然と語り続けるのではなく、過去を語る自己そして他者を批判的に捉えて互いに意見を遣り取りしながらあるべき姿を模索する。
これが、「アカデミック・マインド」である。
「学問する心構え」は、第2考古学的議論の核心に位置する。

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橋本

遺跡発掘の報告書づくりで、現場記録の修正に少なくない力を注ぐのは、どこでも同じでしょうか。
by 橋本 (2021-04-25 20:33) 

五十嵐彰

「修正」が、「捏造」にならないように気を付けたいものです。
by 五十嵐彰 (2021-04-26 06:34) 

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