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山田1968「八・一五をめぐる日本人と朝鮮人の断層」 [論文時評]

山田 昭次 1968「八・一五をめぐる日本人と朝鮮人の断層」『朝鮮研究』第69号:4-12.(2005『植民地支配・戦争・戦後の責任 -朝鮮・中国への視点の模索-』創史社所収)

1946年7月13日付け『朝日新聞』社説「朝鮮人の取扱について」
「日本の統治下にあつた朝鮮が、戦争中わが戦力増強のため、いくたの犠牲を拂つたことや、内地在留のかれらが、軍需生産部門に厖大な労働力を提供したことについて、われらは感謝するものである。しかし終戦後の生活振りについては、率直にいつて日本人の感情を不必要に刺戟したものも少なくなかつた。たとへば一部のものが闇市場に根を張り、物資の出廻りや物価をかき乱したことなど、それである。(中略)
マツクアーサー司令部の意向としては、残留する朝鮮人はわが警察権の行使を拒否することが出来ないことになつている。しかしながら、日本の警察當局が、個々の事件の場合において、朝鮮人に対して、力を十分に発揮出来ないのが現状である。その結果、時にはこれら朝鮮人の行動が、戦争中融和してゐた日鮮人間の感情を疎隔することの生ずるのを悲しむものである。われらは残留朝鮮人が日本の再建途上の困難を理解し、これに協力することを期待してやまないものである。」(245.)

奴隷としてこき使った主人が、当の本人に対して「よく働いてくれてありがとう」とか「ご苦労様でした」などと言っているわけである。そして当時を想い返して「あの頃は良かった」などと回想しているわけである。
「メイク・アメリカ・グレート・アゲイン」などと同じである。「グレート」だったのは、ある一方の立場の人たちだけであり、その頃虐げられていた人たちは決して「グレート」とは思わないだろう。
こうした一方的な「感謝」の表明、あるいは過去を引き合いに出して現状を嘆く元宗主国構成員の臆面もない宗主国意識に対して、元宗主国の当時の読者たちは何の反応も示さなかったようである。

1946年7月14日付け「声」欄「朝鮮人の立場」徐 鐘実(ソ・ジョンシル:朝鮮建国促進青年同盟)
「「日本の統治下にあつた朝鮮が、戦争中わが戦力増強のため、いくたの犠牲を拂つたことや、内地在留のかれらが、軍需産業部門に厖大な労力を提供したことについて、われらは感謝するものである」とは、いかにも我々が自ら日本の侵略戦争に対して犠牲を拂ひ労力を提供し進んで戦争に協力したと彼等は称讃せんと言ふのか? 無反省も甚だしい見方で、全くその反対である。
我々はこれに対して日本から少しも感謝される理由を持たないと同時に、次にある反面に感謝して貰ひたいのである。つまり朝鮮人はかゝる偉大なる犠牲を拂はせられた過去をも忘却してなほ日本の法律と社会秩序維持に協力しながら(中略)、同生共死をしてゐるといふ事実に感謝して貰ひたいのである。
かゝる文句はまた許すべき充分なる雅量(おおらかな度量)があるにしても結びに「われらは残留朝鮮人が日本の再建途上の困難を理解し、これに協力することを期待してやまないものである」とは、隷属を強要するものといはざるを得ず、その意味は要するに帝国主義の残滓というより他に解釈できないのである。
朝鮮は侵略から解放され独立の途上にあり、国際的には東洋の重要なる緩衝国であり、その健全なる独立完成は東洋平和の鍵であり、世界平和のまた鍵である。日本も専制と暴政から脱皮し、新しき日本の再建に逢着し、その困苦もまた察するに余りある。即ち朝鮮人も日本人も同じく困難多岐な自国再建事業に携はつてゐるといへる。
朝鮮人がみながみな善良なりとはいはないが、終戦後日本人諸君は我々に対して温かい言葉一つ言つたか、解放された祝いの言葉一つ言ったか、政府ですら償いの言葉一つ聞かないのである。そればかりか、生活の活路一つ興へず、救済の一策たりともほどこしたであろうか? 却つて既成事実の一・二を誇大に宣伝し、依然として弾圧のみであつたと僕は断言する。平和日本の民主主義を代表する貴社の意見とするならば、両国の将来を憂へ真の民主主義世界平和を希求する時、唯々寒心に堪へず、一層の理解と反省を要求するものである。」(246-247.)

こうした読者からの要求に対して、朝日新聞社がどのような理解と反省を示したのかについては明らかでないが、まともな応答はなされなかったのではないか?

こうした意識は、「良い植民地主義もあったのだ」といった意見表明や高等学校支援制度や幼児教育・保育無償化制度から朝鮮民族学校を除外する現状にまでつながっている。

差別が生み出される大きな要因は、想像力の欠如である。いじめもヘイト・スピーチもネットでの悪質な書き込みも、すべて自分がもしそうであったらどうだろうかという思いに至らないことから生じている。願っているのは、ただただ自分たちの「幸福を実現する」こと自国第一の「国益を確保する」ことのみである。

2020年12月、新型コロナという災禍の真っ只中において私たちが願い求めることは、いったい何だろうか。

「抑圧・差別する民族や集団の側に属する者は、いかに良心的であろうとしても、抑圧・差別される側の民衆や民族の実態、意思、心情を知るのは極めて困難であると、私は認識する。抑圧・差別する側の人間は、この遠い距離を自覚した時、抑圧・差別される側への接近が始まる。」(山田2005「あとがき」:277.)


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