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中生1997「民族研究所の組織と活動」 [論文時評]

中生 勝美 1997「民族研究所の組織と活動 -戦争中の日本民族学-」『民族学研究』第62巻 第1号:47-65.

「単に戦争協力を「悪玉」として批判することはたやすい。しかし過去の行状を断罪することは、なんら生産性がないばかりか、また批判する側の自己正当化に説得力もない。日本における民族学の過去を直視して、過去の研究者が、戦時中にどのような活動をしていたのかという事実関係を継承することが、民族学の展望を開くのではないだろうか。」(48.)

1933年に設立された国策研究会では、1940年に民族問題委員会が設置された。
江上 波夫・小山 栄三・松本 信広が委員として参加していた。
こうした委員が中心となって民族研究所が設立されたという。
国策研究会が1943年に主催した大東亜問題調査会の分科会に南方諸民族事情研究会があり、松本 信広・清野 謙次・三吉 朋十が参加していた。
1943年1月16日付け勅令で民族研究所が設立された。
それは「大東亜戦争ヲ遂行シ大東亜建設ヲ完遂スル為国策遂行二関連アル諸民族二関スル基本的総合的調査研究ヲ掌ル機関ヲ設置スル緊急ノ必要アル二依ル」とするものである。

設立時の所長は高田 保馬、総務部(企画・連絡)は岡 正雄(所員・部長)、八幡 一郎(所員兼)、松浦 素(助手)以下、第1部(民族理論・民族政策・民族教育)・第2部(北部及び東部亜細亜)・第3部(中部及び西南亜細亜)・第4部(支那・西蔵)・第5部(東南亜細亜・印度・太平洋圏)で構成されていた。
江上 波夫は第2部に、八幡 一郎は第5部に所属していた。

「戦後、民族研究所に関係した研究者は、当時の状況について、ほとんど書き残していない。また民族研究所でおこなった業績を、著作目録から除外している場合もある。戦時中の調査研究活動を明らかにすることは、戦後の民族学を考える上で重要な意味を持っている。」(60.)

気になるのは、本論が収録された『民族学研究』の特集「植民地主義と他者意識」の編集部(合田 濤)による巻頭言の中の一文である。

「言うまでもなく、欧米列強は、植民地獲得競争の過程で多くの戦争や少数民族の虐殺などを起こしてきた。しかし、誤解を恐れずに言えば、植民地主義自体は、むしろいかに戦争や内乱を「起こさない」ように植民地経営を行い、植民地の「近代化」を進めるかということに関心を持ってきたのである。直接統治も間接統治も、「平和」に植民地経営を行うための方法論の違いに過ぎない。」(44.)

カギカッコが付された「起こさない」という消極的な姿勢は、決して文字に記されることなく、当人の思いの中に秘められるだろう。
誤解を恐れずに言えば「近代化」という名目は、植民地主義に便乗した自らの学問遂行の営為を正当化するに過ぎない。
かつての植民地主義者は、自らが収奪している被植民地住民のために「近代化」を推進したと真剣に信じているのだろうか。

植民地主義に対する姿勢を明らかにした上で、植民地考古学に対する総体的な研究が必要である。

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