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安藤2020「近現代考古学の可能性」 [論文時評]

安藤 広道 2020「近現代考古学の可能性 -社会に開かれた歴史を目指して-」『経済史研究』第23号:33-56.

2018年7月21日に大阪経済大学日本経済史研究所が主催した黒正塾 第20回寺小屋「考古学への招待」でなされた講演記録である。

「どんな話しをするのかというと、歴史は、私のような研究を仕事にしている人間が、一方的に皆さんに伝えるものではないのじゃないかということ、そして歴史を語る主体は皆さん一人ひとりであって、歴史の世界全体を皆さんの対話のネットワークとして捉え直していくべきではないかということです。」(33.)

「我々の研究室には近現代の考古学を専門とする教員はいませんでした。でも見つかってしまったもの(キャンパス内の旧帝国海軍の地下壕の出入口:引用者挿入)を放っておくわけにはいかないので、私がその調査を担当することになったのです。つまり、私は近現代の歴史に必ずしも望んで入ったわけではありませんでした。しかし、いざ飛び込んでみると、そこがこれまで私がいた世界とは大きく違っていることに驚き、そこに大きな可能性を感じて近現代史に深く関わっていくことになったわけです。」(34.)

という経緯が紹介されて、近現代史における「市民」の存在、社会に開かれた近現代史、資料の多様さと数の多さ、日常的な言語を使って歴史にアプローチできること、現在のさまざまな事象との結びつき、拡がる対立と排除、唯一の正しい歴史はあるのか、共有される歴史とは、「一体化としての歴史」の危険な側面、多様な歴史が共存・対話する世界の意味、共有する歴史を作り上げていく過程とそうした歴史への向き合い方、歴史への真摯さ -truthよりもtruthfulness-、近現代史における考古学的歴史の位置づけ、物的証拠や物的証拠の存在する場所の意味、対話の結節点、ネットワークの起点としてのモノや場所、職業的歴史研究者の役割といった事柄が述べられていく。頻出用語は、「歴史」である。

期待しつつ一読後、自らのイメージする「近現代考古学の可能性」と微妙な離隔感を覚えざるを得なかった。
そもそも現在の日本の大学の考古学研究室に「近現代の考古学を専門とする教員」がどれほど存在するだろうか?
それはともかく、私が感じた隔たりは、筆者と私の立ち位置の違いに起因するものなのであろう。そこには、両者の社会的ポジションの違いも微妙に反映されていることだろう。
私は今から16年前に「近現代考古学認識論」と題して、遺跡概念、水平方向区分の問題性、垂直区分単位重複の問題性、遺跡と埋蔵文化財包蔵地、他者表象、土地痕跡、先史中心主義、不在の現前化といった事柄を述べたことがあった(五十嵐2004「近現代考古学認識論 -遺跡概念と他者表象-」『時空をこえた対話 -三田の考古学-』)。

こうした私の視点からは、同じ「近現代考古学」という言葉を用いながらも、その方向性に微妙な違いのあることが確認された。

「図2は、Aという出来事が生じるまでに複雑な要因が絡み、その後Aと絡んでさまざまな出来事が起こったことを模式化したものです。(中略)何が言語化できて認識の対象になるのか、また認識できた対象間のどの道筋を選択するかには、個々人の知識・経験が深く関係します。加えて、歴史を語る場のシチュエーション、つまりどのような人たちとの関係あるいはコミュニケーションのなかで歴史を語るのかという点も、そこで語られる歴史の内容に大きく作用します。となると、一人ひとり、知識や経験はみんな違いますし、歴史を語るシチュエーションもその場その場で異なりますので、ひとつの出来事をめぐっても、歴史の語られ方は多様にならざるを得ないことになります。」(42-43.)

ということで、「歴史は多様?多様だから意味がある?」と題する「当日のスライドを一部改変」と注記された挿図が示され解説されている(43.)。

ここで筆者の述べる「Aという出来事」に「近現代考古学」という主題を当て嵌めてみよう。
すなわち筆者と私とでは、「近現代考古学という出来事」を論題に掲げた論文が生み出される過程「出来事の要因の説明」が異なる訳である。
すなわち筆者にとって「近現代考古学」は大学に赴任してから4年後の2008年に見出された日吉台の旧帝国海軍の地下壕が出発点であり、私にとって「近現代考古学」は1991年に刊行された新宿区戸山遺跡の考古誌に陸軍軍医学校が所在したという土地履歴が一切記載されなかったというショッキングな出来事が初発の動機であったという違いである。前掲「三田の考古学」を副題に掲げる論文集が編まれた2004年時点で、三田では近現代考古学は顕在化していたが、日吉では未だ潜在化していたということなのだろう。

その後「近現代考古学という出来事」を通じて交差したかに見えた両者は、「出来事の評価の説明」においても軌跡を異にしていく。
すなわち筆者は、「現われ」と「真摯さ」の公共考古学に向けて、鹿児島県鹿屋市の第5艦隊司令部壕や神奈川県座間市の高座海軍工廠芹沢地下壕の調査へと進んでいく(安藤2020『慶應義塾大学日吉キャンパス一帯の戦争遺跡の研究Ⅱ -2016~2019年度科学研究費補助金 研究成果報告書』)。
それに対して私は2000「近現代考古学」『用語解説 現代考古学の方法と理論Ⅱ』、2004「近現代考古学認識論」を経て、2007「<遺跡>問題」『近世・近現代考古学入門』、2008「日本考古学の意味機構」『考古学という可能性』へと展開し、2019『文化財返還問題を考える』岩波ブックレットに至った訳である。

私も筆者の結論である「多様な歴史同士の対話にこそ意味がある」(55.)という点に、全く異論がない。
例えば、最近では立命館の木立さんがまた私たちとは異なる近現代考古学について語られている(木立 雅朗2020「大学・考古学・埋蔵文化財行政 -近現代考古学がつなぐ社会-」『歴史学研究』第997号:14-24・47.)。いろんな「近現代考古学の可能性」がある訳である。
それでは「多様な近現代考古学同士の対話」は、実現するだろうか?

現時点での簡単な見通しを述べれば、つまるところは「歴史を語る」ことを最終目標とする第1考古学と歴史を語る「自らを省みる」第2考古学との違いを再確認することになりそうである。
こうした点を踏まえれば、私の感じた離隔感も故なしとせずということであろう。

安藤さんとは、こうした私の考え方について簡略な意見交換ができた。有り難いことである。
それぞれの違いを踏まえた対話を継続したい。

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阪本

「我々の研究室には近現代の考古学を専門とする教員はいませんでした」は、「我々の研究室には近現代史に関心をもつ教員はいませんでした」というのが正確なところで、安藤さんらしからぬ雑な書きぶりという気もしますが、特段の他意はないですよね。
私はむしろ、「歴史を語る」ことを「最終目標」とはしない第2考古学、あるいは「歴史を語る」ことと「自らを省みる」ことを第1と第2で区分する五十嵐さんの思考の方に違和感を覚えます。
五十嵐さんはもはや考古学を歴史学とは見なしていなかったりしますか?
対象とする主たる資料が物質の歴史学=考古学、主たる資料が文献資料の歴史学=文献史学(いわゆる歴史学)という捉え方自体が、第1考古学的な発想になるのでしょうか?
私は、歴史学の最終目標は「歴史を語る」ことを通して「自らを省みる」ことである、としか言いようがないと考えます。
前者を第1文献史学、後者を第2文献史学として線引きする研究実践をイメージできません。
旧石器や石棒は、それ自体が直接には一切何も語らない(真偽も含め、誰が何年何月に使用したものであるかということ)から、語らせる方法論(思考方法)がつねに問い直されねばならず、その問い直し自体が「自らを省みる」ことを意味する…というのが第2考古学ですよね。
日吉台地下壕は既に語り口、語り方が多々存在する遺跡ですから、「多様な歴史」にポイントを置いて「歴史を語」ろうとする営みは、至極当然のことです(五十嵐さんもそのことを否定しているわけではないですが)。
誤解を恐れずにいえば、第2考古学的な切り口が、「いまこそ必要」であり、「きわめて効果的」な論争を引き起こす「歴史」(文献資料がない時代)もあれば、第1か第2かという問いとは別の切り口が重視・優先される「歴史」もあるのではないのか。
そもそも、第1文献史学だって、資料の読み直しにはじまる自省的営為は常に行われています。
五十嵐さんであれば、日吉台地下壕にどのようにアプローチしたいと考えるのか、それが知りたいですね。

by 阪本 (2020-06-21 22:03) 

伊皿木蟻化(五十嵐彰)

詳細なコメントを頂き、有難うございます。
「そもそも第1文献史学だって、資料の読み直しにはじまる自省的営為は常に行われています」と私も思います。世界の考古学もそうだと思います。ところが「日本考古学」は、どうやらそうではないようなのです。そもそも考古学とはどのような学問なのか、石器と土器の違いは何なのか、石核とは何なのか、そして<遺跡>とは何なのか、といったことが、「日本考古学」で正面から取り上げられて、こうした議論が一定の領域を占めるといったことがないことは、毎年春に刊行される様々なレビュー(一年間の回顧と展望や各種の動向など)の枠組みを一瞥するだけで明らかだと思います。
たまたま地下壕が所在する日吉台は、地形的単位として区切り易かったから「日吉台遺跡群」という括り方で大きな破綻を見せることはないのかも知れませんが、「戸山遺跡」と尾張徳川家下屋敷と陸軍軍医学校と縄文時代の遺物散布地の相互関係は一筋縄ではいきそうにありません。日吉台遺跡群にしても、近現代という時間幅に日吉台に存在したのは、地下壕だけではないはずです。その地に暮らしていた在地の人々の生活痕跡から、地下壕を掘削する作業に従事した人々の暮らした一時的な生活痕跡も、必ずやどこかに存在したはずです。
それぞれ異なる時間幅に暮らした人びとの生活範囲があたかも時代を通じて同一であるとみなす考え方を「円筒モデル」と称しました。私は、近現代考古学は、考古学という学問に根強く残るこうした考え方を揺さぶる大きな可能性を秘めていると考えてきました。
私が述べた「歴史を語る自らを省みる」と阪本さんが述べた「歴史を語ることを通して自らを省みる」ということの違いが今一つ理解できませんでした。今少し補足の説明をしていただけると有り難いです。
「日本考古学」の場合、こうした文脈での「歴史」には、殆どイコールで「編年」という言葉が当て嵌まっていて、そうしたイメージの受け取り方の違いが微妙な解釈の差異につながっているような気もします。
第1あっての第2であって、第1がない第2もないといったことは、当然の事柄かと考えていましたが、意が通じていなかったようで反省しています。
by 伊皿木蟻化(五十嵐彰) (2020-06-22 15:40) 

阪本

私も「近現代という時間幅に日吉台に存在したのは、地下壕だけではないはず」という指摘は、遺跡論、近現代考古学論の根幹をなす大原則であると考える一人です(おそらく安藤さんもでしょう)。その意味では日吉台地下壕の調査に対する「離隔感」は理解できます。
しかしながら、およそ開発工事に付随する埋蔵文化財調査で、何をどこまで調査対象にするかという選択肢が研究者側にフリーに与えられている状況などないわけですよね。日吉台地下壕の場合は、大学当局が考古学調査の対象と位置づけ、それに呼応した考古学研究者が学内に存在した、という事実、状況を十分踏まえないと、「離隔感」は永遠に縮まらないのでは?(踏まえた上でのご発言とはわかっていますが)
さて、私が言う「歴史を語ることを通して自らを省みる」とは、ごく一般的な高校歴史教科書的(笑)な意味合いです。
歴史を語るには、資料と解釈を通じて構築した歴史像や歴史観を伴うことになる。構築された歴史像や歴史観は自己のイデオロギーや所属する集団と切り離せないと考えますので、どんな歴史を語るかは、どんな自分を語るかと同じである、という意味です。
例えば、五十嵐さんや私は、学校で「一揆」をどんな風に習いましたか?抑圧された人々が権力に対して立ち上がるとか、反乱を起こすとか、そういうイメージですよね。でも、一揆はその後、資料の読み直しにより、現在は「起こされるもの」ではなく、(神仏に対して)「結ばれるもの」「つながるもの」と解釈されています。歴史を通じて、階級闘争を語りたかった自分たちの姿は、その後省察され、提示される歴史像も変えられつつあります(従来の解釈が無理筋だったことを多くの研究者が受容)。
考古学は、対象とする資料がそもそも立っていたものなのか、横たわっていたものなのかすらわからないわけですから(笑)、一揆の解釈を史料批判で見直していくのとは次元が違う方法的難しさがあると思います(何が無理筋なのか、研究者間で受容の幅が大きく異なる)。なので、第2考古学は必要だが、第2文献史学は「そこまでの必要はない」ということになると思います。
ともかく、「第1あっての第2であって、第1がない第2もない」という発言を聞いて、安心しました。
by 阪本 (2020-06-23 22:23) 

伊皿木蟻化(五十嵐彰)

自分の文章を読み返してみて、「歴史を語ることを最終目標とする第1考古学」という言葉が要らぬ誤解を招いたと反省し「歴史を語ることを当座の目標とする第1考古学」に訂正したいと思います。
日吉台の地下壕については、「開発工事に付随する埋蔵文化財調査」だけではなく、4年間にわたる科学研究費補助金基盤研究(C)「軍事遺跡の教育・学習資源化をめぐる実践的研究」に基づくものであるということを申し添えておきます。
近藤さんは「資料と研究者との共同発言」と言いました(1976『岩波講座日本歴史』)。それに基づいて私は「語りの内容とともに語り方が問われなければならない」と考えました(2010『季刊東北学』22)。
何を語るかとともに、何をどのように語るかこそが問われていると思います。さらに言えば、今まで何を語っていなかったかということが問われていると思います。
考えを深める機会を与えられたことを感謝します。
by 伊皿木蟻化(五十嵐彰) (2020-06-24 06:40) 

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