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五十嵐2020b「文化財返還を拒むものは、何か?」 [拙文自評]

五十嵐 2020b「文化財返還を拒むものは、何か?」『韓国・朝鮮文化財返還問題連絡会議年報』第9号:9-11.

1.   勅令第263号の意味
2.   文化財返還の前提的認識
3. 「日本考古学」の最前線
4. 「日本考古学」の刻印

自らの関心ある領域あるいは専門とする主題が、ナイフ形石器であろうと連弧文土器であろうと黒曜石原産地であろうと動物考古学であろうと、なされているのが日本社会である限り、それは「日本考古学」の一部であり、「日本考古学」の成立過程には、必然的に「植民地考古学」が関わっており、日本社会で考古学という学問に関わる人は誰もが必然的に「文化財返還問題」に関わらざるを得ない。
自分は無縁であると断言できる人は、一人もいない。
たとえ本人がそうではないと思っていたとしても。

「昭和七年三月満州国の建国とともに、従来関東州に限られた本格的発掘調査の範囲が全満に拡大され、日本の学会、大学などの調査団が続々と渡来し、また満州国当局も積極的に古跡調査に乗り出し、その成果を競い、考古学的調査の全盛時代が出現、滅亡まで十数年の間に大規模の調査も五十を越え、紙数に限られた本稿では述べつくせない。」(三宅 俊成1955「満州考古学の発達」『日本考古学講座月報』第4号:2.)

そして、以下の方々の氏名が発掘調査年・発掘調査地と共に列記されている(調査地省略)。
1932年:三宅 俊成、1933年:浜田博士、原田博士、徳永博士、三宅 俊成、八幡一郎氏、関野博士、1934年:原田博士、徳永博士、浜田博士、1936年:園田一亀氏、島田貞彦氏、鳥山・藤田両教授、池内博士、1937年:鳥山・藤田両教授、黒田博士、滝川政次郎博士、杉村勇造氏、原田博士、三宅 俊成、1938年:藤田教授、遠藤博士、1939年:稲葉岩吉博士、高橋匡四郎氏、奥田直栄氏、三宅宗悦博士、田村実造・小林行雄氏、島田貞彦氏、1940年:三宅 俊成、池内宏・三上次男氏、1941年:長谷部博士、藤田教授、原田博士、杉村勇造・三枝朝四郎氏、1942年:原田博士、斎藤甚平衛氏、駒井和愛氏、梅原博士、黒田博士、1943年:鳥山教授・三宅 俊成、島田正郎・和島誠一氏、1944年:駒井和愛氏、島田・和島氏(同:2-3.)

まさに「続々と渡来し」「その成果を競い」という状況が伺われる。
しかしその「成果を競」った方々は、1946年5月に公布された勅令第263号の言うところの「昭和三年一月一日以降において、日本軍によって占領された連合国の領土内で日本軍の庇護の下に、学術上の探検あるいは発掘事業を指揮し又はこれに参加した者」に該当するので、「教職不適格者として指定を受けるべきものの範囲」にあり「審査委員会の審査判定に従う者」となった。
しかし自らが「教職不適格者として指定を受け」る可能性があったことを告白し、そのことを後世の戒めとするような人は一人としていなかった。

ここから私たちが学ぶべき教訓とは、何か?
上掲リストにも名前が挙げられている考古学者が戦後に語った言葉を見よう。

「一番大きな教訓は、山西省で人民に背を向けられている調査が、いかに困難でみじめなものであるかを痛感させられたことです。侵略者の銃剣に守られる立場に身をおいたことは致命的でした。」(和島 誠一1958「国民に背を向けた発掘と国民とともにする発掘」『歴史評論』第96号、1973『日本考古学の発達と科学的精神』所収)

こうした反省の弁を明らかにした考古学者は、名前が挙げられた29人の中で唯一人である。

以下、思い付くままにいくつかの文章を引用する。

「さて日鮮併合以来の総督政治に就いて、其の得失功罪相交錯するうちに在つて、少くとも我輩は其の功蹟の一として古蹟調査の事業を称揚するに躊躇しない。此のヂミにして俗世間を驚かすことの少ない事業は、併し其の性質に於いて世界的文化的の高遠なるものである。過去に於ける尊敬す可き文化を有する朝鮮の統治を引受けた日本が、当然果たす可く負はされれた文明国の義務の一つである。此の義務の遂行を怠らなかつた我国は、朝鮮が将来自治し、或は独立し、或は万一他国の領土と化する様な日があつても、文明国としての責務を果たしたことに向かつて、日本は世界の人類から、又朝鮮の民人から永遠の感謝を払はるるであらう。」(濱田 耕作1921「朝鮮の古蹟調査」『民族と歴史』第6巻 第1号:70.)

自らを「文明国」に、相手を「後進国」に位置付け、進んだ自らが遅れた相手に恩恵を与えることで、当然のことながら感謝を受けるという典型的な植民地主義的言説(コロニアル・ディスコース)である。

「複雑な国際状況の中で東北アジアの歴史復元における科学的な資料を提供するものであり、こうした一次資料を基にした再調査や再研究は日本人研究者の責務の一つと考えられる。」(宮本 一夫2017「日本人研究者による遼東半島先史調査と現在」『中国考古学』第17号)

およそ100年の時を隔てて、二つの文章では「責務」という単語が相呼応しているようである。

「少なくとも侵略の容認なり黙認なりの上に立って研究活動を展開したことは、それが人類の未来を指し示す任務をもつ歴史研究の一環であるだけに、意識すると否とを問わず、重大な自己否定となってはねかえった。ここにアジアの諸民族の現実と断絶した東亜考古学という、日本の東洋学全体にうかがえる優越主義的な、現実に無関心な伝統的性格が形成されることになった。」(近藤 義郎1964「戦後日本考古学の反省と課題」『日本考古学の諸問題』、1985『日本考古学研究序説』所収)

「伝統的性格」は、易易と解消されることはない。
もし「日本考古学」に深く根付く「現実に無関心な伝統的性格」が克服されていたのならば、考古学者の学会において会員から文化財返還に関わる問題が提起された際に「国政レベルでの事案であること」を理由に門前払いすることはなかったであろう。
すなわち自ら「アジアの諸民族の現実と断絶」する「伝統的性格」が払拭されるどころか脈々と息づいていることを改めて表明したのである。

「学問を現実から引きはなし、現代史にかかわりない態度で、現実に関係のないことを研究するのが、研究者の正しい在り方である、つまり、学問のための学問こそ、その科学性を保証するただ一つの態度である、と考える当時の学問一般の考え方が、考古学者をも支配し、また考古学者をして、みずからの現実逃避の合理化の手段たらしめていたことは明らかである。」(同上)

引用文で言う「当時」は戦時期を指すが、実は21世紀においてもこうした考え方が日本の「考古学者を支配し」ていることは明らかである。

返すべき文化財を返すために必要な3つの前提的認識(返還三原則)を示した(9.)。

第1:植民地支配下で行われた発掘は、不当な発掘である。
第2:不当な発掘によって得られた資料は、不当な資料である。
第3:不当な資料であることを明示することなく用いた研究は、不当な研究である。

街のコンビニ店内にも「エシカル」という宣伝文句が満ち溢れている2020年の日本である。




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