SSブログ

メルケル(三島訳)2020「アウシュヴィッツ=ビルケナウ財団10周年記念式典にあたって」 [雑]

アンゲラ・メルケル(三島 憲一訳)2020「アウシュヴィッツ=ビルケナウ財団10周年記念式典にあたって」『世界』第931号:143-151.

2019年12月6日、ポーランド国立オシフィエンチム博物館にて犠牲者の生前の肖像写真群を背景に、生還者および犠牲者の縁故者を前にしてなされた、およそ15分間のスピーチ
「下手人たちをはっきり名指すことが重要なのです。私たちドイツ人は犠牲者に対して、そして私たち自身に対して、そうする責任があるのです。犯罪を記憶し、下手人たちをはっきり名指し、犠牲者たちの尊厳にふさわしい哀悼の心を保つこと、この責任に終わりはありません。この責任にはいかなる変更の余地もありません。この責任は、私たちの国と不可分に結びついています。この責任の自覚は、私たちのナショナル・アイデンティティの確固たる構成要素なのです。啓蒙された自由な社会、民主主義と法治国家という自己理解の確固たる一部なのです。」(144.)

元のドイツ語が何であるか確認できないが、「下手人」という日本語は語感がキツイが(動画の日本語字幕では「犯罪者」)、国家の責任者が自国の犯した過去の犯罪行為に対して、加害者の責任および後継者である自らの責任について明言し、かつそのことが現在の国家において「確固たる構成要素」であるとする明確な意思表示が、世界の共通理解(グローバル・スタンダード)である。

「だからこそ私たちはここではっきりと明確に意思表示をしなければなりません。「われわれは、反ユダヤ主義を許さない」と。どんな人々も、私たちのドイツで、そしてヨーロッパで安心して、我が家にいるのと同じ気持ちでいられなければなりません。まさにアウシュヴィッツこそは、私たちのひとりひとりに、日々気を配るように、そして人間らしさを維持し、私たちの隣人の尊厳を守るようにと、警告し、義務づけているのです。」(145.)

「反ユダヤ主義」という言葉に、私たちは「在日朝鮮人差別」といった言葉を挿入しなければならない。「われわれは在日朝鮮人差別を許さない」と。「どんな人々も、私たちの日本で、我が家にいるのと同じ気持ちでいられなければなりません」と。なぜ高校無償化から朝鮮高校だけが除外されているのか。なぜそのことを裁判所に訴えなければならないのか。

「私たち皆に責任があるのです。そしてこの責任には、思い起こすということが含まれます。私たちは決して忘れてはなりません。終止符ということはあり得ませんし、相対化ということもあり得ません。」(145.)

2017年9月1日、小池 百合子都知事は毎年なされていた朝鮮人虐殺者追悼式典への追悼文の送付を取りやめた。9月26日の都議会で次のように答弁した。「虐殺への認識についてのお尋ねでございました。この件は、さまざまな内容が史実として書かれていると承知をいたしております。だからこそ、何が明白な事実かについては、歴史家がひもとくものだと申し上げております。」
歴史家なる他者に自らの判断をゆだねて、あたかも相対化を装い、自らの歴史認識の表明を回避し、そのことによって否定論を公認している。こうした詐術が日本では横行している。

「虐殺否定論の意図を考える上で参考になるのが、ホロコースト否定論を批判的に研究する米国の歴史学者デボラ・E・リップシュタットの言説である。リップシュタットは17年12月に日本でも公開された『否定と肯定』という英国映画のモデルとなった人物だ。その著書『ホロコーストの真実』(滝川義人訳、恒友出版・1995年)の中で、彼女はこう指摘している。
否定論は、論点が二つに割れていて、自分たちがその”一方の立場”にあると認知されたいのである。
つまり、ホロコーストが実際にあったか否かについて2つの対立する学説がある、という構図にさえ持っていければ、否定論者の”勝ち”だということだ。そうなれば一般の人々は、歴史の素人である自分にはどちらが正しいか分からないので判断留保にしようとか、真実はたぶんその中間にあるんだろうとか考えるようになる。これが否定論の「機能」である。
これは朝鮮人虐殺否定論にも大いに当てはまる。虐殺があったという説となかったという説の2つがある、という構図が受容されてしまえば、日本の社会風土では、学説が分かれているテーマを教育に持ち込んだり、公的な場で追悼したりするべきではない、という話に帰結する。実際、先に触れた右翼団体「そよ風」は、18年1月21日のブログのタイトルにこう掲げている。「諸説あってはいけないのですか?」
私たちは虐殺否定論のこうした狙いとどう対決すべきなのか。これについてもリップシュタットはヒントを与えてくれている。彼女は、否定論者と「論争」してはいけないと強調する。それは「諸説ある」という構図をつくってしまうからだ。では放っておくしかないのか。そうではない。
「ホロコースト否定者の基本戦略は、歪曲である。全体の大ウソに少しの真実をまぜて、否定者の戦術を知らぬ人々を混乱させようとする。肝心な情報を勝手にカットしたつぎはぎ話、ミスリードするため事実の一部にしか触れないハーフ・トルース。いずれも、事情に疎い人々をだまそうとする彼らの常套手段である。」
ではどうするか。リップシュタットは否定論者の「物事を混同せしめ歪曲するやり方」「もっともらしい議論の吹きかけ方」「意図や手口」をこそ、「白日のもと」にさらすべきだと主張する。
これを私の言葉で言い換えると、否定論者の言説を一つの「説」であるかのように扱い、議論するのではなく、これは一体どのような「トリック」だろうかと客観的に吟味し、解明し、そのカラクリを人々の前で明らかにすることである。要は学説や意見ではなく、「手品」として扱えということだ。帽子から鳩が飛び出すさまを見て超能力かもと考えるのではなく、「どのような手品なのか」と考えるということであり、社会的には、否定論者のトリックとしてのネタを広く共有し、これを「諸説」であるかのように扱うことを決して認めないことだ。恐らく朝鮮人虐殺否定論以外の歴史修正主義についても、同じことが言えるのではないかと思う。」(加藤 直樹2019『トリック -「朝鮮人虐殺」をなかったことにしたい人たち-』ころから)

「諸説あってはいけないのですか?」という問いかけに対しては、こう答えよう。
「もちろん「諸説」あっていいんだよ。しかしいま問われているのは、その「諸説」の内容なのだ。詐称に満ちている説は、この場合「諸説」を名乗る資格はないんだよ」と。

「ここにいらっしゃるチウインスキー(アウシュヴィッツ=ビルケナウ記念館館長)さん、あなたおよび、この財団でこの追悼の場を、警告のための記念の場として、また資料センターとして維持することを仕事にしておられるすべての方々に、私は心からお礼を申し上げたいと思います。また修繕や維持のプロジェクトに関わっておられるすべての方々にもお礼を申し上げたいと思います。この地が今後とも証言を続けることができるようにと、大変な尽力がなされましたし、また現在もなされ続けております。収容所のレンガの獄舎は、今後とも維持されることがたしかですし、発掘作業も続いていますし、防御壁や防御テントも作られました。犠牲者から奪った衣服や所持品も修復がなされ、保存されています。
この保存計画のためには、今後25年間にわたる財団基金をかなりはっきり増額しなければなりません。ドイツはこれに金銭的に大きく加わるつもりであります。このことを昨日、ドイツ各州の首相とともに決めたところであります。
この財団のおかげで、また多くの国際的な案内役の方々のおかげで、この記念の場は、学習の場、沈思の場、自覚の場となっています。「二度とこういうことのないように」というメッセージを強く発する場となっています。このことに私はお礼を申し上げたいと思います。」(146-147.)

日本国の首相が、加藤 直樹氏のような歴史修正主義者と闘っている人たちに「お礼を申し上げる」日は来るだろうか? そして日本国政府の代表者が中国の「侵華日軍第731部隊罪証陳列館」や「侵華日軍南京大虐殺遭難同胞紀念館」の館長および関係者に心からの謝意を述べて財政的支援をする日が来るだろうか?

「とはいえ、なにをしても、ここで虐殺された人々を取り戻すことはできません。なにをしても、この前例のない犯罪をなかったことにすることはできません。この犯罪は、ドイツの歴史の一部であり、今後もそれであり続けます。この歴史はいくども語り続けねばなりません。それは私たちが気を張り続けるためであり、こうした犯罪がその端緒すら二度と起きないようにするためであり、私たちが人種差別と反ユダヤ主義のありとあらゆる不愉快極まりない現れに対して断固として対処するためであります。この歴史は語り続けねばなりません。それは、私たちが今日も明日もどんな人間であっても、その人の尊厳を守り続けるためであり、犠牲者に対してその名誉をたたえ、追憶を続けるためであります。」(147.)


nice!(3)  コメント(0) 
共通テーマ:学問

nice! 3

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。