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五十嵐2020a「書評 ジョウモン・アート」 [拙文自評]

五十嵐 2020a 「書評 ジョウモン・アート」『季刊 考古学』第150号:165.

「…世界考古学会議での様々な発表(114本!)と比較して、日本ではどうも盛り上がりに欠けているように思われる。その要因として考えられるのは、「日本考古学」では依然として編年研究などの文化史復元(第1考古学)が主流を占めていて、「考古学ポテンシャルの拡張」に関わる方法論や研究手法あるいは現代社会との接点に関する問題(第2考古学)についての関心が低調なせいではないだろうか。」

276頁におよぶ最先端の意欲的な試みである。本ブログでも紹介したが、「ジョーモン・レギュラー」なる先史フォントのこと、石器の実用性とデザイン性を巡る対談、パブリック考古学との関わりなど、与えられた僅か1800字という制約の中では述べることは叶わなかった。
「日本ではどうも盛り上がりに欠けているように思われる」と記したが、実際は各地で様々なイベントが行われており(古谷 嘉章2019『縄文ルネサンス』:171-198.)、盛り上がりに欠けていたのは私の知る世界だけのようである。但しアートと考古学双方において「相互性がない」(同:192.)とする観点では共通している。

「考古学は単にアーティストに発掘現場という体験の機会を提供するだけでなく、自らの拠って立つ社会的な存在基盤を問い直さなければならない。本書は、そうした「日本考古学」の在り方そのものを問うているように思われる。」

ところが、何たる偶然か、拙文掲載誌は「(日本)考古学はどこへ行くのか」と題した「記念特大号」であった。まさに「日本考古学の在り方そのもの」を検討するには、最適のテーマ設定ではないか!

冒頭は、「(日本)考古学はどこへ行くのか」と題する5人の研究者による座談会である。
語られた内容は、Ⅰ 各時代・分野の研究動向、Ⅱ 考古学のこれから 議論1 学際化の進展と課題、議論2 デジタル化と考古学研究、議論3 日本考古学と国際化、議論4 個別研究の深化と総合化、Ⅲ まとめにかえて -考古学と活用-という章立てである。そしてその結語は、以下の通り。

「活用は大事ですね。考古学の発掘調査や研究はほとんど税金で行われていますので、市民への成果の還元が重要です。しかし、活用することで資料や研究成果が消耗品になってはいけないと思います。保存と活用は必ず両立できるところがあるはずですので、常にそこを考えていかないとなりません。また市民のなかでも子どもや若い世代が考古学を学んで研究したいと思うような活用の仕方を、これからもっと考えなくてはならないと思います。」(27.)

2年前になされた「討議」(『現代思想』第46巻 第13号:8-33.)と読み比べると、その内容・密度・広がりの点で、両者を隔てる大きな違いが浮かび上がるだろう。
「国際化」として話される内容も、数年前の危惧が解消されたとはとても思えないし、そこで述べられているのは「日本考古学協会蔵書をイギリスのセインズベリー日本芸術研究所に寄贈するということが実現すれば」(24.)という果たせなかった願望の表明である。
文化財返還問題を語ることなく語られる「国際化」とは、いったい…

座談会に引き続く各論は、「考古学と社会」と題する総論(考古学史と社会背景、考古学と文化財、考古学とジャーナリズム)のほか、「考古学は何を明らかにしていくのか」と題した時代別の論考(時代区分、生産と流通、葬墓制と葬送儀礼、心・象徴、東アジア)、「隣接分野と考古学のこれから」と題する論考(自然科学、年代測定、形質人類学、文献史学)となる。
こうした構成は取りも直さず従来の、いわゆる「ジャーナル的」な枠組みをそのまま踏襲しているという感が強い。

そこに、近現代考古学もなければ、アートもない。
「考古学の思想」(『現代思想』2018-9)に触れている人は、誰もいない。
文化財返還も、アイヌ遺骨返還もない。

「東アジアの中の日本を考える」という章立ての「朝鮮半島」(129-133.)という項目で、戦時期の日本人考古学者が朝鮮半島で行った発掘調査とその結果もたらされた考古資料の現状について何ら述べることなく、「これからの(日本)考古学の方向性」について考えることができるのだろうか? 続く「中国」(134-137.)の箇所で、辛うじて東亜考古学会あるいは「日本による大陸侵略という負の側面」という記述があるだけである。
あるいは「隣接分野と考古学のこれから」の「形質人類学」(146-149.)において、現在問題となっているアイヌ民族や琉球民族への遺骨返還問題に全く触れずになされる「これからの(日本)考古学の方向性」とは、いったいどのようなものなのだろうか?

編集方針から執筆者の意識に至るまで、あまりにもそれぞれの関心が考古学的過去(第1考古学)に向かい過ぎていやしないか?

「(日本)考古学は、どこへ行くのか」
今いる現状をしっかりと認識せずになされる自問は、どれだけ繰り返しても明確な答えを得ることはできないだろう。
なぜならば哲学や現代思想という世界共通の羅針盤を参照することのない「日本考古学」は、同じ場所をグルグル回っているだけ、あるいは行き止まりの袋小路に入り込んでいるとしか思えないからだ。

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