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金2009『朝鮮王妃殺害と日本人』 [全方位書評]

金 文子(キム・ムンジャ Kim Moonja)2009『朝鮮王妃殺害と日本人』高文研

以下のように記した。

「1895年に朝鮮国王高宗(コジョン)の妃である明成皇后(閔妃ミンビ)が日本人によって王宮で殺害され、遺体すら残されなかった事件がおきました。その時に王妃の部屋から持ち出されたとされる遺物が、上野の東京国立博物館に所蔵されています。(中略)
同じことが自分の国で起きたとしたら、私たちはどのように思うでしょうか。」(五十嵐2019『文化財返還問題を考える』:55-56.)

「同じことが自分の国で起きたら」という想像力を働かすためには、まずどのようなことが実際に起きたかを知らなければならない。

「朝鮮の王宮・景福宮(キョンボックン)の、迷路のように配された多数の建物と園池の奥に、門と塀で囲まれた乾清宮(コンチョングン)という宮殿があった。その中に、さらに門と塀で守られた長安堂(チャンアンダン)という国王の居殿と、それにつづく坤寧閣(コンニョンハプ)という王妃閔妃の居殿があり、またその奥に世子(世継、後の純宗)と世子妃の居殿も別棟でおかれていた。
1895年10月8日の早朝、日本の軍隊が乾清宮を取り囲み、日本刀を振りかざした「壮士」たちが、門と塀を破って乾清宮に乱入してきたとき、国王高宗は自ら庭に面した広間に出て、進入者たちが奥に入るのを防ごうとした。近侍の者は、手を大きく上下に振りながら、「大君主陛下、大君主陛下」と連呼した。しかし侵入者たちは、国王の傍らを、ときには国王の肩をつつきながら、王妃を求めて長安堂に侵入した。
その時、王妃は、宮女たちとともに長安堂の奥の間に潜んだ。その部屋で、侵入者たちの前に立ち塞がった宮内大臣 李 耕稙(イ・ギョンジク)は、日本人士官にピストルで撃たれた。宮女たちが次々に部屋から引きずり出されるのを見た李 耕稙は、よろめきながらもなお王妃の傍らへ行こうとして廊下に出たところを、襟髪をつかまれて引き倒され、さらに日本刀で斬られて、縁側から庭先へ落された。
王妃かも知れないと疑われたもの3名が、庭先に引き出されて斬り殺された。その中に閔妃もいた。」(15.)

こうした暴挙に至るには、当然ながら要因がある。
第1に「朝鮮駐屯軍交替問題」である。日清戦争終結後に戦時体制として朝鮮国内に駐屯していた後備役軍隊を帰国させて、代わりに平時の常備軍を必要最低限に規模を縮小して送らなければならなかった(54.)。
第2に「朝鮮国内鉄道および電線確保問題」である。日清戦争終結後には当然朝鮮国に返還しなければならなかった。しかしどうしても返還したくなかった。むしろ鉄道・電線の確保を名目に引き続き軍隊を駐屯させたかった。遼東半島を返還せざるを得なかった三国干渉後の東アジア政局では、とくに朝鮮国政府からの依頼という形を取らざるを得ない。そのためには、ぜひとも親日政権の樹立が必須となる。そのためにはロシア寄りとみなされた明成皇后を取り除かなければならなかった。

演者たちは、名だたる「明治の元勲」たちである。

伊藤 博文(1841-1909):総理大臣(136.)
大山 巌(1842-1916):陸軍大臣(136.)
陸奥 宗光(1844-1897):外務大臣(52.)
川上 操六(1848-1899):陸軍中将・参謀次長、大本営上席参謀(52.)
西園寺 公望(1849-1940):外務大臣臨時代理(53.)
井上 馨(1836-1915):朝鮮国駐箚特命全権公使(60.)
三浦 梧楼(1846-1926):宮中顧問官陸軍中将、井上の後任特命全権公使、事件の首謀者(97.)
山県 有朋(1838-1922):陸軍大臣代理兼監軍(164.)
芳川 顕正(1842-1920):司法大臣(74.)
谷 干城(1837-1911):予備役陸軍中将(104.)
星 亨(1850-1901):衆議院議長、朝鮮政府法部顧問(319.)

そして杉村 濬(86.)、内田 定槌(177. 249.)ら現地の外交官あるいは新納 時亮(145.193.)、楠瀬 幸彦(205.)ら公使館付武官の軍人たちである。

事件直後に三浦は内田に「是で朝鮮も愈々日本のものになった。もう安心だ」と述べたという(97.)。
一方、事件当時京城領事館一等領事であった内田は西園寺外務大臣臨時代理宛に「歴史上古今未曽有の凶悪を行うに至りたるは、我帝国の為め実に残念至極なる次第に御座候」と書き送っていた(249.)。

「予審免訴となり釈放されて東京へ帰還した三浦のもとに、天皇から米田侍従が遣わされた。三浦は次のように語る(『観樹将軍回顧録』345-347.)。
東京に着いた其晩、早速米田侍従が訪ねて来た。我輩は先づ、「お上には大変ご心配遊ばしたことであろう。誠に相済まぬことであった。」と挨拶すると、「イヤお上はアノ事件をお耳に入れた時、遣る時には遣るナと云ふお言葉であった。」と答へ、…」(273.)

実は、本事件の演者はもう一人いた訳である。集団で強盗殺人事件を起こした犯人たちが、刑に服するどころか軍人・官僚・民間人を問わず全員無罪放免になり、それどころか栄誉栄達を得て昇進していったのも、「股肱の臣」としての信念に基づいていたからであろう。

「「イヤ大院君とは約束も何もない」と三浦梧楼が米田侍従に答えた。しかも、何も約束がないにもかかわらず、大院君が「自分の言ひなり次第になった」と言った。これは、三浦特有の「大言壮語」を超えて、「大法螺」と言わねばならない。しかし、三浦の回答よりももっと注目すべきことは、天皇が王妃事件を初めて知った時の発言である。米田侍従によると、「遣る時には遣るナ」と言った、という。
ところが不思議なことに、同書が中央公論社から現代仮名遣いに改めて文庫本として出版された時、何故か天皇の言葉を含む二行、「イヤお上は」から「更に、」までが削除されていた。印刷ミスとは考えられず、意図的に天皇の発言「遣る時には遣るナ」が隠されたようだ。(中公文庫『観樹将軍回顧録』289頁、1988年)」(275-6.)

これもまた「股肱の臣」による忖度なのであろう。しかし再版時に当該部分だけが削除されたという事柄自体が、かえって当該発言の信憑性を高めている。著者は「原本の意図的改竄は出版倫理上許されない行為」(276.)とする。それほど、都合が悪かったのだろう。

歴史的事象を評価する際には、当時の時代状況を勘案しなければならないといった警告が発せられることがある。例えば、以下のように。

「日本考古学史、とくに昭和の前半における考古学史については、まだとかく学史の対象として冷静に論じることに抵抗があるのは事実である。感情に溺れることなく、客観的に説くことは容易ではない。さらに重要なことは、考古学の学史をそれぞれの時の流れ、その時点における「国民」としての立場を度外視して、「考古学者」としての側面のみを切り取って把握する不合理さを冒していないか、という不安感がつねに付きまとうことである。」(坂詰 秀一1997『太平洋戦争と考古学』吉川弘文館、歴史文化ライブラリー11:224-5.)

考古学者としての側面だけではなく「国民」あるいは「臣民」としての立場を考慮せよという忠告である。
しかし考古学者や政治家・官僚・軍人としての側面だけではなく「国民」あるいは「臣民」としての立場以前に、「人間」としての立場があってしかるべきではないか。
他国の王妃が惨殺されるという事件に対して「遣る時には遣るナ」という感性よりも、「歴史上古今未曽有の凶悪」事件は「実に残念至極」とする「その時点における「人間」としての当たり前の感性」が優先されなくてはならない。

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伊皿木蟻化(五十嵐彰)

本事件のわずか4年前の1891年に起こった「ロシア皇太子傷害事件」と比較すると、「朝鮮王妃殺害事件」の異様さが浮き彫りになります。いわゆる「大津事件」では、犯人は即座に無期懲役、外務・内務など関連する3大臣が引責辞任、天皇自ら被害者を京都あるいは神戸まで見舞いに行っています。
by 伊皿木蟻化(五十嵐彰) (2019-12-27 22:37) 

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