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縄文研究の地平 2019 研究集会 [研究集会]

縄文研究の地平 2019 研究集会 -層位/分層、遺物ドット・接合からみた遺跡形成-

日時:2019年12月15日(日) 10:00~16:30
場所:東京都埋蔵文化財センター 2階 会議室
主催:縄文研究の地平グループ
共催:東京都埋蔵文化財センター

報告1.「遺構」論の今 -「遺構」とは-(及川 良彦)
報告2.10年前の調査成果 -オライネコタン4遺跡を使おうとしたら意外と大変だった-(村本 周三)
報告3.遺物の出土位置情報から災害を可視化する -新潟県村上市上野遺跡での実践-(小野本 敦)
報告4.上野原遺跡(第10地点)「環状遺棄遺構」の検討(立神 倫史)

「本稿は考古学における「遺構」について考えてみたいと思う。そして、「遺構」がもう一つの代表的な用語である「遺物」に比べると、その資料性に制約が大きいことを再認識するとともに、「遺物」がその性格から未来に残されることが多いのに対し、「遺構」は残ることの少ない、調査が終わると再現が難しいこと、他の考古学研究者が「遺物」のように詳細に実見する機会が少ないこと、検証が難しいことを示す。さらに、「遺構」の認定、どのような構造の「遺構」、いつの「遺構」、何にどのように使われた「遺構」かを再検討する際に、報告書や研究書などの資料に頼るほかないという、「遺構」論の限界性がその資料論的特性にあることを示したい。」(及川:1.)

「いろいろな形の穴ぼこ」といった従来の感覚的な「遺構論」ではない、資料形成過程に着目した「遺構論」(五十嵐2006「遺構論、そして考古時間論」『縄文集落を分析する』)を提出してから10年余り、ようやく「「遺構」について考えてみたい」という「遺構論」が提出された。しかし今回は様々な事例の紹介という前半部分だけで、「遺構とは何か」について考える肝心の後半部分はいまだ準備中との由。全貌が明らかになるのが、待たれる。そして会場では、主にその及川遺構論に関する感想として、いくつか思うところを述べた(詳細は、来年刊行予定の『セツルメント研究』に掲載されるとのこと)。

1. 想定復原あるいは思い込み復原について
もう今から10年以上も前になろうか、小学校の教科書にも載っていたあの有名な登呂の周堤帯住居について、「あの周提帯は後藤さんがペタペタやって復原したもので、あのように掘り出されたんではないんだよ」と知らされた時の驚き、そして「やはりあの土壌環境で、あれは有り得ないよねー」と得心したことを思い出した。同じようなことは今でも全国各地で日々行われていることだろう。
私自身も経験がある。ある古代の住居の発掘に携わっていたある日のこと、あるベテラン作業員の方が壁面を水でこねた泥でペタペタ修復している。「え? どうしたの?」と聞くと「掘り過ぎと言われたから修復している」とのこと。彼女は私など足元にも及ばないベテラン作業員である。その方にして「掘り過ぎ」などということがあるのだろうかと訝しげに思いながら、その場は通り過ぎてしまったが、今にして思えばそれは「掘り過ぎ」などではなく、正しく当時の状況を掘り出しただけで、ペタペタしていたことこそが登呂と同じ「想定復原」だったのではないだろうか。
他の3辺がこの通りキレイに掘り出されているのだから、残りのこの壁も当然このラインが本来であり、そこから大きくはみ出している歪みは「掘り過ぎ」であるとの解釈がなされて、調査担当者が頭で描いた構築当初のキレイで端正な住居プランが作り出されてしまう。しかしそれが本当に本来の姿と言えるだろうか? 作りかけの住居跡があるように、壁が崩れている住居も当然あって不思議ではない。しかしそうした住居跡はほとんど見たことがない。このように壊れて放棄された住居跡がないと考えることのほうが無理があるように思えて仕方がない。
こうした見た目重視の「思い込み復原」は何も竪穴住居跡などの遺構に限らない。最近経験した想定復原は、「石棒」と呼ばれている「棒状石製品」である。石棒が当時樹立して使用されていたといった確証はない。樹立して掘り出された明確な発掘事例もないし、樹立して用いられていたという明確な「使用痕跡」も報告されていない。それなのに、博物館などでの大形石棒の展示は、全て「樹立」である。これも明確な「思い込み復原」であろう。
調査者である私たちの思い込みについて考える「第2考古学」の主要な課題である。

2. 2次的変形について
私たちが発掘によって掘り出した考古資料は、製作されて使用された姿をそのまま保っているという保証はどこにもない。当事者たちによって廃棄されて埋没してからも、様々な自然営力や人為的行為によって影響を受けている。欧米考古学では埋没後変形過程として半世紀前から様々な考察が繰り返されてきた。
人為的な削平の程度によって「方形周溝墓」と「周溝を有する建物跡」が混同され、あるいは斜面に構築された縄紋早期のチリトリ状竪穴住居跡が、斜面断層・地すべりによって、あたかも切り合う複数の住居跡のように誤認されてしまう。掘り込まれた面と掘り込んだ面には必ず切り合い関係があるはずだが、実際に土地痕跡でそれを確認することは殆ど不可能だから、より一層その識別には注意をしなければならない。しかし実際は、様々な誤認が横行しているのではないか。
ダブル・カウント(実際は単数のものを複数と認識してしまう)は、何も斜面住居跡などの遺構だけではない。以前提起したのは、石器の最小個体数問題である(五十嵐2002「石器資料の基礎的認識と最小個体数(MNI)」『日考協第68回総会発表要旨』)。私たちは、明らかにナイフ形石器の先端部破片とか石鏃の先端部破片などと認識できる石器資料をナイフ形石器や石鏃の器種数量としてカウントしていないだろうか? しかし石器という考古資料は縮減(リダクション)を資料特性としているのだから、先端部の欠損に伴って先端部破片が生じても再加工によってその石器自体は再生されていく可能性を常に有している。だから先端部破片を石器器種数量としてカウントするのは誤りである。しかしこうした問題提起も、正面からは受け止められず、相変わらずダブル・カウントが横行しているようである。深鉢形土器の破片が30片出土しても、誰も深鉢形土器が30個存在したなどとは言わないのに、なぜナイフ形石器の先端部破片は、ナイフ形石器としてカウントされてしまうのだろうか? 単なる「破片」として処理するには忍びないといった石器研究者特有の「ケチ」な心理が作用しているとしか思えない。

3. 貝塚は遺構なのか?
貝殻の人為的な堆積層(貝塚)は、遺構だろうか? 層をなす大規模なものから住居跡に収まってしまう小規模な地点貝塚に至るまで様々な形態を呈するこれらが遺構ならば、土器や石器の破片が含まれている堆積層、いわゆる遺物包含層あるいは「土器捨て場」と呼びならわされているものはどうなるのか? 私の中では、石器集中部あるいは「礫群」と呼ばれている礫集中部も含めて、これらは全て「廃棄痕跡遺構」である。すなわち竪穴住居跡や落し穴土坑といった空間確保を意図して製作された「製作痕跡遺構」とは、根本的に別種の非意図的に形成された痕跡である。
これに類するものとして「使用痕跡遺構」がある。例えば「焼土跡」である。これは焼土を形成しようとして意図的に形成されたものではない。何らかの燃焼行為の結果として形成されたものである。だから使用の頻度によって、その形成範囲は明瞭になる場合もあれば曖昧な場合もあるだろう。だから誰もが一致する範囲というものは、設定困難である。石器集中部も焼土跡も調査者や報告者がこの範囲だろうと「えいやっ」と区切った範囲でしかない。<遺跡>と同じである。客観性そして再現性がない訳である。使用や廃棄の頻度が小規模であれば曖昧模糊としており、頻度が高まれば誰もが認めることができるような中心領域が生成される。しかし周囲との境界部分は明瞭な中心部から曖昧な周辺部へと漸移的に推移しており曖昧模糊としている。
こうした事象は、遺構だけでなく、遺物においても認められる。すなわち使用痕跡石器である「磨石」や「敲石」である。数回の使用では、よく観察しないと識別できないだろう。しかし数十回あるいは数百回と使用されることで、誰もが識別できる痕跡が形成される。しかしその境界は不明瞭であり、明確な一線は引き難い。
このように、私たちの周りを取り囲むモノたちの有り様を製作(M)-使用(U)-廃棄(D)という3次元の階層で認識するのが、考古痕跡論の基本である(五十嵐2018「鉛筆で紙に線を引く」『現代思想』46-13)。
はたして鹿児島県上野原遺跡(第10地点)の「環状遺棄遺構」と称されている考古単位は、どこからどこまでが当該「遺構」なのか、誰もが納得できる境界線を示すことができるだろうか。

4. 接合について
本研究集会の副題にある通り、接合という考古事象に関しても討論の中でしばしば話題となっていたが、どうも根本的な部分での認識が共有されていないように感じられた。ただ接合すればすなわち同時性の根拠とされているが、そんな単純なものではないだろう。
少なくとも土器接合と石器接合に違いについては明確に識別されなければならない。もう少し正確に言うと接合資料相互の生成時間の前後関係が明確に示しうる1類接合(石器剥離面接合)と接合資料相互の生成時間の前後関係が示し得ない、すなわち同時生成である2類接合(土器破片接合、礫片接合、石器剥片の折損面接合)の識別である(五十嵐2002「旧石器資料関係論」『都埋文研究論集』19)。
そしてさらに重要なのは、1類接合資料によって示される資料製作の前後関係(製作時間)と1類接合資料が出土した<場>の生成の前後関係(廃棄時間)が常に対応するとは限らないということである。このことは接合資料の平面的な相互関係に止まらず、垂直的な上下関係についても該当する、というのが考古資料論の根幹である(五十嵐2017「接合空間論」『理論考古学の実践Ⅰ理論篇』、五十嵐2018「考古累重論」『日考協第84回総会研究発表要旨』)。すなわち砂川のF地点とA地点の生成前後関係が接合資料の生成前後関係から単純に導出され得ないのと同様に、単純に「下から出たモノが古くて、上から出たモノが新しい」とは断言できないということである。

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