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小泉1986『朝鮮古代遺跡の遍歴』 [全方位書評]

小泉 顕夫 1986 『朝鮮古代遺跡の遍歴 -発掘調査三十年の回想-』六興出版

「大正十一年私が朝鮮総督府博物館に就職が決まった時、浜田耕作先生は、朝鮮の博物館や古跡調査に当るに際し、いつ、いかなることで朝鮮が日本の手を離れることになっても、学者として、日本人として恥しくないように心掛けねばならないとさとされた。まさにそうした事態が、こんなに早くやって来ようとは、当時先生は予測されなかっただろうが、私は最後の日まで先生の教えを守り、朝鮮の文化財を護り続けたつもりでいる。これは私だけではなく藤田亮策氏を始め、すべての同僚も同じで、有光教一氏のごときは、私同様にすべての人が引き揚げてもなお一年近くも朝鮮に踏み止まり、発掘調査の指導まで済ませて引き揚げたのである。
丸裸で引き揚げて来た私は、幸いに家屋敷や多少の土地もあり、生活に困ることはなかったが、書物や資料を無くしてしまった身では、木から落ちた猿同然で、田舎にある土地を開いて農場でも造ろうと決意した時、今さら百姓の真似事でもあるまいと、古い友人の斡旋と黒田源治館長の奔走で、奈良国立博物館に私のために普及課を新設し、課長として迎え入れてくれ、再び研究生活に戻ることが出来た。それから三十五年が過ぎ、今では崇神陵の傍らで余生を送っている。」(あとがき:385.)

日本人考古学者が90歳近くになって植民地朝鮮における経験をまとめた回想録である。
「日本人学者として恥かしくないように、朝鮮の文化財を護り続けたつもり」という自負も、立場の違いによって大きくその評価を異にすることになる。

以下は、在日朝鮮人の文化財研究者の評価である。
「かつて平壌府立博物館館長だった小泉顕夫に至っては、称賛したばかりでなく「今まで放置されていたものを総督府の手で発掘したもの」であり、「地主の補償もきちんとしていて」問題なく、「私自身、韓国に奉仕したという自負を今も失っていません」と居直っている。総督府の御用学者として精力的に古墳の乱掘と遺物の取出しにかかわった彼らの本心は、故李弘植高麗大学教授が「在日韓国(文化財)備忘録」で厳しく論断したように「あくまでも日本の考古学界の研究意欲を充足させるため」であり、「朝鮮民衆を啓発するための文化事業とは無縁なもの」だった。
言うまでもなく、朝鮮総督府が行った「古蹟調査事業」は、日帝の植民地支配の政策と密接に繋がった事業であり、目的は李教授が指摘しているように「韓国を独占的に支配するために、韓国の各分野を綿密に知り、より緻密に支配を強化する目的で歴史的、文化的遺産を調査しようとするもの」であった。
日本人学者らは総督府の真の目的を十分に承知しながら、いかにも朝鮮文化の「学術的解明」に「寄与」するような姿勢を装った。」(南 永昌2016「<奪われた朝鮮文化財・なぜ日本に 33> 古墳の乱掘に関わった総督府の御用学者たち」『朝鮮新報』2016年10月24日)

当事者がどれほど誠実であったとしても、その立ち位置が誤っていたとしたら当然のことながら厳しい歴史の審判を受けることになるだろう。
私たちは、「御用学者」の「御用」という言葉の意味を今一度改めて考える必要があろう。

「対日賠償要求の根拠と要綱 1954年8月15日 大韓民国政府
(一)1910年から1945年8月15日までの日本の韓国支配は韓国国民の自由意思に反した日本単独の強制的行為として正義・公平・互恵の原則に立脚せず、暴力と貪欲の支配であった結果、韓国及韓国人は日本に対する如何なる国家より最大の犠牲を被った被害者であり「韓国人民の奴隷状態に留意し韓国を自主独立させる決意」を表明した「カイロ宣言」又はこの「宣言の条項を履行すること」を再確言した「ポツダム宣言」によって韓国に対する日本人の支配の非人道性と非合法性は全世界に宣告された事実である。
(二)大韓民国の対日賠償の応当性は再度疑心する余地のないところで、すでに(一)「ポツダム宣言」と(二)連合国日本管理政策及び(三)ポーレー賠償使節報告に明示されていたということを明白にするところである。しかし我々大韓民国対日賠償請求の基本精神は日本を懲罰するための報復の賦課ではなく犠牲と恢復のための公正な権利の理性的要求にもとづくものである。
(三)この基本精神に立脚して政府としては慎重な態度をもって対日賠償に必要な基本調査を実施し、わが国としての正当な要求を四部に分けて茲に請求するところである。
第一部は現物返還要求之部として、金・銀・美術品・骨董品・船舶等特殊物品の返還要求であり、この部分に限ってはすでに1949年4月7日「マッカーサー」司令部に伝達した。
第二部は確定債権之部として此は日本の敗戦を契機にして生成したある種の要求条件でもなく、戦争の勝負とは何等関連のない単純な既成債権債務関係であり、したがって賠償問題とは本質的に何の関連のないことであり、我々が絶対に貫徹しなければならない要求であり権利であることを強調するところである。但し「マッカーサー」司令部側が此等確定債権乃至は韓日間清算関係を一般賠償要求に包含し此と同時に提出請求することを主張してきたので茲に提出すると同時に優先的に迅速に償還又は決済されることを要求するところである。
第三部は中日戦争及び太平洋戦争に基因した人的物的被害之部で我々は乙巳条約の無放性(ママ)を国際法的に弁明することもできるし又は「カイロ」「ポツダム」の両宣言の真義を闡明して韓国に対する日本の過去三十六年間の支配を非合法的統治として烙印すると同時に其間に被害を被った膨大で無限な損失に対して賠償を要求することもできる。しかし我々の対日賠償要求基本精神に鑑み此は茲に全然不問にするところである。但し中日戦争及び太平洋戦争期間中に限って直接戦争に因して我々が受けた人的物的被害だけを調査し茲にその賠償を強力に要求するところである。
第四部は日政府の低償収奪之部として日本統治中彼らが経済的に韓国の資源・労働力・生産物を壟断搾取したことはとうてい測量することが不可能であるほど莫大なものなので茲に其中一端を調査して提出することで我々の賠償要求を最少限度に補強すると同時に韓国人の全民族的な要求である点を明らかにし茲に充分な賠償を要求するところである。」(浅野 豊美・吉澤 文寿・李 東俊 2010 『日韓国交正常化問題資料 基礎資料編 第3巻 対日賠償関係』現代史料出版:5-7.)

日清戦争によって日本は中国から賠償金として当時の日本の国家予算のおよそ2倍にあたる3億1000万円を得た。しかし日中戦争による賠償金を中国は放棄した。中華民国は連合国を構成していたために、文化財についてはGHQを通じてそれなりの返還を受けている(曲阜魯城出土遺物@東京大学など)。しかし朝鮮半島由来の文化財については、朝鮮が「特殊的地位の国」に区分されたために戦時賠償として対象にはならなかった。1965年の日韓条約に伴う文化財協定によって1432点の文化財が大韓民国に返還されたが、朝鮮民主主義人民共和国(DPRK)由来の文化財についてはこれから交渉が始まることになる。

「やがて第一期の調査が一段落を告げたので、次の第二期の調査までの間、リンゴ箱二個分もある大小各種の玻璃小玉の分類調査を私の宿題として梅原さんは京都に引き揚げ、私は久し振りに緊張した生活から解放され、独りのんびりした気分で玻璃小玉の整理に取りかかった。玻璃小玉と言っても小は直径二ミリ程度のものから大は一センチ位のもので、黄、碧二色が混在し、しかも土や腐朽木片等と共に搔き集められているので、一応水洗して夾雑物を除去してから小玉を一つ一つつまみ上げて大小、色彩に応じて分類函に投入するという単純な仕事の連続で、現在なら女子のアルバイトでもというところだろうが、当時ではそのような便利なものは無く、連日独りで同じ仕事の繰り返しで、時折やって来る守衛や館員に「今日もお米屋さんですか」と冷やかされていた。」(20.)

時代や世代の限界なのだろうか?
それにしても引用文で述べられる「現在なら女子のアルバイトでも」の現在は、本書が出版された1986年である。

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