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米村編1949『北海道先史学十二講』 [全方位書評]

米村 喜男衛 編1949『北海道先史学十二講』北方書院

考古學の意義(駒井 和愛:7-17.)
考古學と美術(関野 雄:19-30.)
北海道の先史時代(河野 廣道:31-43.)
貝塚と骨角器(大場 利夫:45-63.)
考古學研究の實例(米村 喜男衛:65-83.)
言語と文化史(知里 眞志保:85-93.)
北海道の住居趾(名取 武光:95-101.)
北海道の先住民族(児玉 作左衛門:103-115.)
國史と考古學(斉藤 忠:117-126.)
北海道史について(高倉 新一郎127-142.)
モヨロ貝塚人(伊藤 昌一:143-152.)
考古學雑感(原田 淑人:153-157.)
モヨロ貝塚を探る -モヨロ貝塚調査團員座談會-(伊藤・大場・河野・児玉・駒井・関野・米村:159-174.)

錚々たるメンバーである。
それもそのはず、1945年以降大陸での調査ができなくなった「東亜考古学会」が国内における再出発のターゲットとしたのだから。その経費は、メンバーに交付された人文科学研究費が充てられていた(駒井 和愛ほか12名「北海道モヨロ貝塚の発掘調査」、名取 武光「モヨロ貝塚の竪穴と土器発掘調査」)。
1947年から始められた調査の2年目に、初年度に「文部省指示のもと」に地元で開催されたのと同様に、12人が4日間にわたって行なった「先史学講座」をまとめた論集である。

「私の題は考古學の意義となつている。この考古學という言葉ですが、これは英語のアーチオロジイ、独逸語、仏蘭西語、露西亜語などの似た形の言葉の訳であります。」(駒井 和愛:9.)

当時「考古学」という英語の発音表記は「アーケオロジー」でも「アーキオロジー」でもなく、「アーチオロジイ」だった!

「以上のような重要問題、すなわち人種學上の疑問ならびに日本原人の問題を學界に提供しているアイヌ民族の現在の状態を見るに、轉た今昔の感に耐えないものがあります。その昔アイヌの酋長、コシャマインやシャクシャインのような英雄が叛乱を起したころは、アイヌも非常な勢力を以て和人を苦しめたものでありますが、その後次第に和人の勢力が加わつてきたため、文化、文政のころはニ萬六千の人口を持つていたアイヌ民族も次第に減少の一路を辿りまして、あるいは悪疫のため、あるいは生活の急激な変化のためにだんだん減つて行き、明治初年には約一萬五千となつてしまつたのであります。
その後明治年間においてはアイヌの人口は戸籍上にはあまり著名な変化はなく、一進一退の有様で、昭和九年の調査では一萬六千人となつております。これによつて見れば、アイヌは明治以後は少しも減つていないように見えますが、これはただ政府の統計上に現われた数字だけであつて、この中には和人からの貰児や婿入りなどが相当はいつており、また非常に混血の度が進んでおりまして、アイヌというのは名ばかりになつているのが多いのであります。われわれがアイヌ部落を訪れても純粋なアイヌは一人も見当たらないこともあります。恐らく一萬六千人の中でも純粋なアイヌは精々2%くらいのものではないかと思われます。すなわち本来のアイヌが年と共に減つて行くのは事実であります。そして近き将来において絶滅することは明白でありますが、われわれとしては一抹の淋しさを感ぜざるを得ないのであります。しかしながらこれを他方から考えるならば、アイヌはわが大和民族に融合しつつ発展を遂げんとするものであり、誠に喜ぶべきことと信ずる次第であります。ただこの際、アイヌ民族に関して残された幾多の問題だけは是非解決しなければならないことを痛感している次第であります。」(児玉 作左衛門:114-115.)

将来の事柄が、「明白」と断言されている。典型的な「アイヌ滅亡論」である。
これでは、アイヌの人びとの遺骨がヒグマなどと同じように扱われていたと言われても、いかにもありそうなことだな、と思わざるを得ない。

「われわれはアジア大陸で仕事をしたのが、大正末期から昭和の始めにかけて東亜考古學會を支那ではじめ、朝鮮、南満、北支、蒙彊に學術的研究をしてきた。遺跡は戦争のため壊れる虞れがあるので、その防止に軍部に意見を述べてきた。
私たちは主として大陸方面に研究を進めてきた結果、一つの基礎を置いてきたと考えている。大陸の方の研究は東亜のために必要だが、同じ亜細亜の地でも日本の地が學者の手から忘られているのでないか。日本の歴史は上代において神話、伝説を古事記、日本書紀を主としてきたが、神話、伝説を払拭して純考古學で行こうと決り、ことに歴史の編纂を進めている。」(原田 淑人:155.)

「朝鮮、南満、北支、蒙彊」の遺跡は「戦争のため壊れる虞れがあるので」調査をしてきたという。このような詭弁で聴衆はみな納得したのだろうか。戦時期に「日本の地が學者…から忘(れ)られてい」たなどと考えていたのは、あなたたちだけではないのか。なぜ国内の遺跡調査は「純考古学」で行かなかったのか。すべて詮無い話しである。

最近読んだ関連する文章を紹介する。

「たしかに、先人も主張するとおり、考古学における「民族学的方法」は、魅力的であり、また有効な方法でもあるだろう。しかし、考古学的資料と今日の民族例を比較するという、その比較の「前提にあるもの」はなんだろうか。そのことを充分に議論せず、表面的に観察された結果だけをもとに、結論を急ぐのはどうだろう? たとえばアイヌ文化の要素の詳細な分析あるいはその歴史的過程を十分に検討せずに、比較しようとする時間的に隔たった二つの文化を「同一境遇」「同一文化程度」と見なす文化観は認められるだろうか。なぜ、比較が可能となるのかということに考えが及ぶとき、意識するしないにかかわらず、そこに「同一文化程度」という文化観が潜んではいないだろうか。あるいは「進んでいるー遅れている」といった進化論的な価値観が隠れているのではないだろうか。さらにそれが無条件で文化的な優劣観と結びつくとき、きわめて危険な思想となりかねない。」(出利葉 浩司2015「アイヌ物質文化はどのような視点から研究されてきたのだろうか -民族学研究と考古学研究とのはざま-」『環北大平洋地域の先住民文化』国立民族学博物館調査報告第132号:254.)

「大和民族」という自負をもって、北海道、「朝鮮、南満、北支、蒙彊」を調査してきた訳だが、そのことの意味がどれほど意識されているだろうか。そうした過去の行為の結果として、それぞれの展示室や収蔵庫にそれらの<もの>たちが存在している。意識に応じた行為、行為の結果としての<もの>、ならば意識が改まったのなら、それに応じた行為が求められているのではないか。


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アマチュア

こりゃすごい。偉大なる「大和民族」が「文化の意識の低い」国の文化を調査「してあげた」と読めてしまう。日清日露戦争後の日本人は、他のアジア人をナメきっていたと陸軍大将が語っていたが、敗戦後もその意識は変わらなかったらしい。自分の過去を反省することは、自分の業績の否定にも関わるからか先生たちはしなかった。もしくは初めから頭に無かったか。江上さん斉藤さんも韓国が懐かしいなんて文章を書いているのを見たことがあるし…。といっても自分がその立場になっていたら同じことをしてそう。
by アマチュア (2019-07-27 01:12) 

伊皿木蟻化(五十嵐彰)

「第一回の調査のため我々一行が東京城に入つたのは昭和八年六月六日の冷雨降りしきる午後であつた。恰もこの城邑が半月程以前に焼き払はれてゐた時で、途中の危険も鮮く無かつたため、我々は海林から荷馬車に分乗し、一日行程で寧安に到着するまでの間を我が陸軍の討伐隊と同行し、ついで寧安から東京城までの九邦里余の間を我が領事館警察署長澤田寛幸氏外警官十一名及び現地の保安官宇佐美勇蔵氏外同隊員二十数名の護衛を煩したのであつて、此等当局の厚意に対しては殆んど謝辞を知らないところである。」(東亜考古学会編1939『東京城』:5.)
「一つの基礎を置いてきた」と回顧された軍学一体の実態。
by 伊皿木蟻化(五十嵐彰) (2019-07-28 08:32) 

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