SSブログ

井上2017『天皇の戦争宝庫』 [全方位書評]

井上 亮 2017 『天皇の戦争宝庫 -知られざる皇居の靖国「御府」-』ちくま新書1271

筆者は、私と同い年のジャーナリストである。

「御府(ぎょふ)は計五つ造られた。各御府の名称と戦争、造営時期(資料によっては相違あり)は次のようになっている。
〇振天府=日清戦争、1896(明治29)年10月
〇懐遠府=北清事変(義和団事件)、1901(明治34)年10月
〇建安府=日露戦争、1910(明治43)年4月
〇惇明府=第一次大戦・シベリア出兵、1918(大正7)年5月
〇顕忠府=済南・満州・上海事変、日中・太平洋戦争、1936(昭和11)年12月
御府のほか大砲など大型の戦利品を収蔵する砲舎や天皇のための休所、模型置き場などもあった。戦後に取り壊されたものもあるが、御府本体の建物はすべて往時の姿で残っている。」(9-10.)

まさに「知られざる」そして「忘れられた」施設群である。ワープロの変換候補にも「ぎょふ」→「御府」は出てこない。

「御府」については、「唐碑亭」の「鴻臚井碑」という渤海国に関わる石碑を紹介する論考で初めて知るに及んだ(酒寄1999【2016-04-20】)。もちろん本書でも触れられている(98-100. 216-219.)

「中国での報道によると、翌2015年6月、連合会(中国民間対日賠償請求連合会)は北京市高級人民法院に日本政府と宮内庁に対して石碑の返還と謝罪、賠償を行うよう求める訴えを起こした。東京地裁と国際司法裁判所にも訴状を郵送したという。
宮内庁は提訴について「ノーコメント」を貫いている。あくまで民間団体の提訴で、中国政府は石碑に対して何ら動きを見せていない。宮内庁が御府の公開や取材に神経質なのは、この問題が影響していることは間違いない。
筆者は宮内庁に対して「外観を見るだけでいいから」と取材を申し込んだが断られた。終戦の「聖断」の場となった「御文庫附属室」など、皇居の歴史的施設の公開がどんどん進んでいるが、「ここだけは見せられない」という強い意思を感じた。」(219.)

酒寄1999を論じた記事では、「御府」に今でも「戦利品」が残っているのではないかという予測を記したが、どうやら現在は「戦利品」は存在せず、「御府」は単なる倉庫として使用されているようだ。

「御府に収蔵されていた膨大な戦利品・記念品はどうなったか。これらは「輝ける戦勝」における「栄光の記念品」であったが、敗戦によって「略奪品」に一転する。連合国最高司令部(GHQ)は日本の非軍国主義化を進めるため、全国にある戦利品の一掃を日本政府に指示した。(中略)
第一章で述べたように、各戦役で得られた戦利品は日本全国の学校、社寺に分配、展示されていた。翌46(昭和21)年4月19日、GHQは「掠奪品の押収及報告に関する覚書」を発した。(中略)
この「略奪品押収指令」は当然、戦利品の「宝庫」である御府にも及んだ。
『昭和天皇実録』によると、GHQの覚書からほぼ一か月後の46年5月16日に御府は廃止された。1896(明治29)年10月の振天府造営から50年、御府はその歴史の幕を閉じた。(中略)
『実録』は「収蔵の兵器類については同月28日及び6月17日、進駐軍将校による検分が行われた。以後、兵器類は日本鋼管株式会社川崎工場において溶解作業が行われる」と記している。(中略)
昭和天皇の戦争責任はデリケートな問題だった。天皇を戦争責任から切り離すため、天皇=平和主義者というイメージ作りが行われていく。「軍国主義的遺物」である御府が皇居のなかに残留していることは不都合なことだった。明治以降の戦利品・記念品を含めて、すべては消去されねばならなかったのだ。
「朕が将士の血を踏み屍に枕し万艱報効の致す所なれば之を後世に伝えざる可からず」と明治天皇が命じた戦利品・記念品の数々は、昭和天皇を守るためにこの世から消された。(中略)
収蔵品の一部は処分されず、中国に返還され、アメリカが持ち帰ったという話もあるが、明確な記録はない。現在御府の建物は無傷で残っているものの、宮内庁によると、かつての収蔵品はいっさい残されていないという。」(207-210.)

かつては、鹵獲兵器と戦没兵士の写真や名簿を納めて「国威発揚の宣伝装置」として靖国神社との「二社体制」、「皇居の靖国」として知られていたという(11.)。それが戦後は「忌むべき日本帝国主義、軍国主義」の象徴的施設と見なされて、収蔵品の「すべては消去され」たという。
分からないのは、なぜ「御府」は消去されて、靖国の遊就館は消去されていないのか、という点である。

もちろん略奪品は戦地における兵器類(鹵獲兵器)に限らない。
略奪(掠奪)とか軍国主義といった「忌むべき」対象としてのイメージが湧きにくいが、日本の著名な博物館や大学に保管・所蔵されている戦時期に植民地・占領地から運び込まれた様々な文化財・石像など、例えばホテル・オークラの五重石塔、トーハクの小倉コレクション、トーダイの楽浪古墳出土品、キョーダイの慶陵武人壁画などなど、これらすべてが「忌むべき」<もの>なのだ。
ただどのようにして今ある<場>に持ち込まれたかという経緯が明らかにされていない、秘匿されているが故に、そうしたマイナス・イメージを免れているに過ぎない。しかしそれも遠からず明らかにせざるを得ないだろう。

それにしても「御府」に収蔵されていた遼東半島金州城の鎧門や石獅子、北洋艦隊旗艦「定遠」の巨大な龍の彫刻などは、本当に中国に返還されたのだろうか?

ここで私たちは、「戦利品の社会心理学」なるものを考えなければならない。
戦地であるいは占領地で優位にたった勝者が、敗者の放置し残した様々な物品を獲得するということ、その欲望について。
それがある場合には、日本軍兵士が身に着けていた寄せ書きのある「日の丸」であり、ある場合は戦地強姦に繋がり、ひいては植民地支配という「忌むべき」政治形態そのものであったということを。

nice!(2)  コメント(0) 
共通テーマ:学問

nice! 2

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。