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『現代思想』2018年9月号(Vol.46 No.13)特集 考古学の思想 青土社 [全方位書評]

討議 :溝口(考古学)・國分(哲学)・佐藤(宗教哲学)、中沢(人類学)・山極(霊長類学)
エッセイ :港(映像人類学)
概論 :溝口(考古学)
考古学のフロント :ハミラキス(考古学?)、五十嵐(考古学)、吉田(考古学)、内田(考古学/考古学史)、辻川(考古学)
考古学的方法 :田中(表象文化論)、三中(進化生物学)
人類史の更新 :大西(人類学)、柳澤(哲学/キリスト教思想)
現代思想との交差 :佐藤(宗教哲学)
の14本で構成された特集号である。

『現代思想』誌としては、衝撃的な1990年12月号「考古学の新しい流れ」あるいは大規模科研の産物としての2016年5月号「人類の起源と進化」以来の考古学特集号である。
本特集が生れた震源は、以下の一文と思われる。

「さて、めまぐるしくうつりゆく、現代思想の(こう呼んでよければ)「物質的」転回を考えたとき、同じく物質の学を自認しているはずなのに、その転回にどこか「乗り遅れ」ている学問分野があるように思われる(そこに乗らなければいけないわけでもないのだが)。それが「考古学」である。」(佐藤 啓介2016「死者は事物に宿れり」『現代思想』44-1:232.)

「乗り遅れている」とされた学問に対する、いわば「テコ入れ」企画である。
果たして「テコ」は入っただろうか?

冒頭は「考古学と哲学」と題する哲学者(國分・佐藤)と考古学者(溝口)による鼎談である(8-33.)。
佐藤氏は、哲学と考古学の双方に関わっているという意味で、両者(哲学-考古学)の橋渡しそして司会・進行といった役回りだろうか。

「当時の考古学は、日本の考古学の常で、まずは時間軸をモノの分類からつくるという非常にヘビーなトレーニングを受けます。」(溝口:11.)

「先ほど考古学のトレーニングではモノから時間軸をつくるのだとおっしゃっていましたが、それだってすごい想像力を働かせてモノから時間をつくっていくわけですよね。だから、パースペクティヴを強烈に拘束するイデオロギーをどうやって組み換えるかというところで、考古学内部の困難かつ重要な理論闘争があるのだろうと思います。」(國分:14.)

「考古学という学問も、もちろん「なぜ」を問う人はいるけれど、基本は決定的にhow、どのようにモノが変化し、どのように持続したかということのディスクリプションなのです。ひたすらに記述なのです。」(佐藤:27.)

考古学における文化史構築という側面すなわち第1考古学の在り方(これは言い換えれば世界考古学における日本考古学の在り方になるだろう)が述べられている。しかし日本考古学の「パースペクティヴを強烈に拘束する」「時間軸をモノの分類からつくる」「ひたすらに記述」という現状から、いかに「どうやって組み換えるか」「困難かつ重要な理論闘争」については、あまり語られない。実際、語るに足るものがないというのが実情だろう。

「日本の考古学の第一段階は終わったのだと思います。モノの整理・体系化に関しては世界に冠たる精緻なものをつくりえたと思います。土器形式(型式)体系などはまさにそうです。ただ、その呪縛から逃れられないところもある。その先へ突破していくにはどうしたらよいかということを、若い考古学者は認知考古学などを取り入れたりしながら模索しているのだろうと思います。」(中沢:63.)

中沢-山極両氏の対談でも同じような事柄が述べられている。しかし第1考古学の克服が「認知考古学の取り入れ」や「今西理論の参照」によって果たしうるとも思えない。

鼎談における話題も、チャタル・ヒュユクやギョベクリ・テペを巡る事柄へとスライドしていく。もちろんハイデガーやインゴルドも出てくるが、「物質的転回」に対する考古学の在り方については、以下のような問題提起にとどまり、その後の話題もこうした問題からはどこかしらフォーカスがずれていくような印象を受ける。

「考古学や最近の人類学でも言われていることですが、道具をつくったり使ったりする行為というのは、私が考えてやるというよりは、モノに沿って、道具に沿ってやっていく。そうやって身体をつくっていくのですが、まさにそうすることで、一つのモノからわたしの行為がつくられるだけではなく、同じモノを使うことで他の人も同じ行為を学んでいく。そういうモノを介した動作の連鎖、つまり私の動作の連鎖と人々の間の動作の連鎖のなかで私の行為が私の行為だけに限定されず、「モノの共有」が「共有された行為」を生み、そしてそこで学ばれた身体動作によってまたモノをつくることで、さらにそれが連綿と伝達されていく。」(佐藤:19.)

佐藤氏のいわゆる「アクターなきネットワーク」論であるが、こうした考え方を受け止める素地が、隣接する人類学方面ではいざ知らず[2018-04-07]、「日本考古学」ではいまだ醸成されていないということなのだろう。

「…考古学を考古学とする規定的要素であるモノの認識について学史が到達した<モノの他者性・自律性>の認識に依拠しながら、モノとヒトとの相互関与性/構築性・媒介性についての認識と想像力を拡張することが、考古学という営みの目的の一つということになるだろう。そして、そのような営みが<説明>という態度の本源的権力性・暴力性への今日的反省に促されたものであるとすれば、その目的はさらに、モノとヒト相互のよりよい存在様態の解明への志向性を含むものとなることも自然なことであろう。」(溝口 孝司「考古学は/で何をするのか」:73.)

筆者はここでギュメを付けて「説明」という用語を用いているが、これは「日本考古学」という文脈では疑いもなく「第1考古学」に置き換えることができる。

「確かに考古学者たちはある特定の近代国民国家の領域内における、全くニュートラルな存在ではありえない土地に存在し続けた、あるいはそのような土地から掘り出されたモノたちが国家ナショナリズムに組み込まれることに、意識的にも無意識的にも貢献し続けたという一面がある。(註7)その他、植民地主義、帝国主義とも無縁ではない(Trigger 1984)。そのため、かつての宗主国、帝国にあるモノの由来についても考古学者は向き合う必要がある。」(吉田 泰幸「過去を資源化する考古学の現在」:115・121.)

「考古学の思想」と題された特集号における、文化財返還問題に言及した唯一の箇所である。
『現代思想』の次なる考古学特集号では、文化財返還に焦点を当てたものになるだろう。

「見たわけでも聞いたわけでもないのに、かわらけ片や石ころから仰々しく国家形成や人類進化などを語る、と揶揄されてきたそのあり方こそが、まさにコトバに拠らずモノを実践論的に記述、分析してきた貴重な研究実践といえる。」(大西 秀之「モノとヒトが織りなす技術の人類誌/史」:174.)

結論として「言葉は寸法と目方のない道具であり、道具は目方と寸法をもつ言葉である」という文章を引いた拙論【2018-08-25】とは、真っ向から対立する文章である。しかし基本的な疑問として「コトバに拠らず」に、いったいどうやって「記述」するのだろうか? おそらく大西氏の言う「コトバ」と私の「言葉」とでは、意味する内容が異なっているのであろう。そうとしか考えられない。

佐藤氏の「考古学者が読んだハイデガー」(194-204.)は、訳書に付された解説文(佐藤2012「ハイデガー流考古学は人文学に何をもたらすか?」『解釈考古学』:386-396.)を補い、より詳細に解説するもので、ハイデガー哲学に馴染みのない者にとって、大変有意義である。

本特集号については、これから考古学サイドからも幾つかのコメントが述べられることと思うが、その述べられ方、受け止め方、そして述べられなさ(スルー)の在り方に(例えばハミラキス氏の「非正規移動の諸考古学」はどのように受けとめられるだろうか)「日本考古学」の現状が反映されることだろう。
考古学一般ではなく「日本考古学」に、いったいどのような思想があるのか、という問題の根幹が。

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伊皿木蟻化(五十嵐彰)

様々なコトバが飛び交い、それらをしかるべく咀嚼し消化するには、それなりの時間が必要となりますが、そうしたある程度の時を経て、私の中でいまだに流下せず浮上してくるのは、「ひたすらに記述」(27.)と「そのショボさが厄介」(32.)という二つのフレーズです。華やかなスポットライトを浴びている「縄文ブーム」とはまさに対極、しかしおそらく実態を的確に捉えているだろうと思わざるを得ない、インパクトあるコトバたちです。
by 伊皿木蟻化(五十嵐彰) (2018-09-13 14:54) 

伊皿木蟻化(五十嵐彰)

当面の課題は、15頁で哲学者によって考古学側に提出された問いかけに対して、自分なりにどのように応答するかについて考えることです。
by 伊皿木蟻化(五十嵐彰) (2018-09-26 08:33) 

伊皿木蟻化(五十嵐彰)

「「考古学の思想」を特集した『現代思想』46-13(2018-9)は「考える考古学」にとって有用な発言集であった。考古学の溝口孝司が対談(「考古学と哲学」)で「組織的・体系的な温故知新をしたい」と語り、佐藤啓介(宗教哲学者)が「偶然性ではないパターンがあるからこそ考古学という学問が成り立つ」との言辞は、多くの示唆をあたえてくれよう。」(坂詰 秀一2019「総論」『考古学ジャーナル』第727号:3.)
この膨大な言説から引き出されたものは、これだけなのか?!
そもそも本書を「発言集」と位置づけるその真意は?!
そのこと自体が「多くの示唆をあたえてくれよう。」
by 伊皿木蟻化(五十嵐彰) (2019-05-25 09:59) 

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