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緑川東問題2018(その7) [論文時評]

まだまだ続く。
今回は、縄文時代文化研究会2018年発行の『縄文時代』第29号より。

「敷石住居跡と大形石棒に関しては、昨年度から引き続き、東京都国立市緑川東遺跡SV1と出土の大形石棒4点について議論が展開されており、五十嵐彰は「廃棄時設置」という解釈に批判的見解を示す。そのなか東京考古談話会主催による公開討論会「緑川東遺跡の大形石棒について考える」が開催された。これらの議論は「遺物論」の項目で詳細に取りあげられると思われるが、敷石住居跡に関わる議論であることから、本項でも概括的に触れておきたい。討論会では、これまでも異論を呈してきた五十嵐彰が、これらの形成過程について持論を提示する。五十嵐は、大形石棒が敷石遺構SV1構築時ないしは使用時に並置されたものであり、敷石住居の転用ではないと結論づける。五十嵐の指摘するように、あらゆる可能性を排除せずに先入観にとらわれずに形成過程を検討することは重要であろう。」(阿部 昭典2018「遺構論」:185. 以下、文献リスト番号および註は省略して引用)
以下、黒尾 和久、長田 友也、中村 耕作、合田 恵美子、山本 典幸各氏の所論が紹介されている。

「合田は、黒尾の論のプロセスを支持し、出土状況の詳細な観察と記録を論拠とするのは大前提であるが、五十嵐の言う「対論の提示」も含めて、あらゆる可能性を排除せずに、その蓋然性を問うべきことがあらためて確認されたとする。さらに、やむを得ない状況に理解を示すも、石棒を横断する位置での層位断面図が必要であることを指摘している。」(同)

文意が受け取りづらい文章だが、「出土状況の詳細な観察と記録…」から「…あらためて確認された」までは合田2017「公開討論会「緑川東遺跡の大形石棒について考える」」『東京の遺跡』第108号:2.における文章そのままなのだから、カギカッコを付して引用すべきであろう。

それよりも、合田2017において紹介すべきは、こんな当たり前の事柄ではなく、合田氏がSV1における4本の大形石棒の並置について「とてつもなくない」と「筆者には感じられた」という、これまでの論者の誰も表明したことのない点、言わば前提ともなっていた事柄に異論を提示したことにあるのではないか?(まぁ、こうしたことをいくら論じても、何の生産性も得られないという意見には同意したいのだが。)

批評という行為は、単に高みにたってあれこれ点数をつけるのではなく、批評対象におけるどの箇所を取り上げてどのように評価するのか、言い換えればどの箇所を取り上げないかという点に、評者の価値観・立ち位置が鮮明に表出してしまう、取り返しのつかない、ある意味で大きなリスクを背負った営みである。

「緑川東問題 冒頭でも触れた本年の大きな話題である、4本の完形石棒が出土した東京都国立市緑川東遺跡・SV1に関するものを併せてここで扱う。
端緒は昨年提示された五十嵐彰による疑義、およびその前後に様々な形で発信された意見にあり、五十嵐により「緑川東問題」と命名された。これらを受けて2017年2月に、東京考古談話会主催により公開討論会が開催された。評者もこの問題の当事者であるため、本評での私見は差し控えたいが、現状での議論の趨勢について触れておきたい。」(長田 友也2018「遺物論」:191.)
として、以下「現状での議論の趨勢」が述べられている。

しかし、当事者なので「私見は差し控えたい」という姿勢は如何なものであろうか。
当事者であろうとなかろうと、批評活動において「差し控える」などといったことがあってはいけないし、私は当事者であれば尚更のこと、当該問題に対する私見を開陳してもらいたいと思う。

「東京都緑川東遺跡をめぐって多数の論考が提示された(本誌「遺構論」も参照)。このうち、中村は中央に設けられた床下土坑や竪穴の埋め戻し過程に注目した。柄鏡形住居張出部にしばしばこうした浅い土坑が検出されていることを指摘し、竪穴の意図的な埋め戻しと合わせて廃屋墓の可能性を探ったが、確定的な結論には至っていない。
こうした動向の中、『国史学』で柄鏡形住居の特集が組まれ、谷口康浩と山本輝久が近年の動向を整理している。ともに葬制との関連について1項目設けているほか、「核家屋」や「再葬」についても触れているが、各論考の取り上げ方に両者の差が際立つ部分もみられる。」(中村 耕作2018「墓制論」:197.)

中村氏もある意味で「当事者」であろうが、別に「私見」を差し控えていない。当然であろう。
なお谷口氏と山本氏「両者の差」が何かという点こそが、語られるべき重要な論点ではないだろうか。

緑川東SV1の大形石棒設置時機を巡って明らかになりつつある立場の相違、それは緑川東SV1だけでなく、小田野SI08・10について、更には周提礫や環礫方形配石と称される他の事例についても、すなわち「柄鏡形敷石」と称される遺構を取り巻く様々な形態の同時期の遺構群について、ある特殊な遺構について当初からの構築痕跡と考えるのか、それともそうした特殊視は排して全て一般住居の再利用(廃屋儀礼)とするのかという、決して相容れることのない二つの立場が、今現在覆い難く明らかになりつつあるという認識を共有する必要があるのではないか。

最近読んだ文章から。

「研究するという行為が生きるということの一コマであり、生きるということが秩序の創発の継続そのものであるとすれば、研究し、その結果をシェアするということは秩序の存在を前提として生み出される秩序である。そのような意味で、「考古学する」ということが、自らの生を可能とする秩序としての「自分の間尺」から自由になることが不可能であることは、実は、「最初からわかっておくべき」種類のことであった。
(中略)
このやり方しかないのか? これを続けることによって自分(たち)はどこに向かうのか/運ばれるのか? そして、そのような領域化の行方が崩壊と滅亡であるかもしれないとわかった時、どうすれば良いのか、についても、今までとはちがうモノとの関わり方という形で、イメージできるようになるかもしれない。」
(溝口 孝司2018「考古学は/で何をするのか」『現代思想』第46巻 第13号:78.)


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