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緑川東問題2018(その4) [論文時評]

「(緑川東遺跡の)敷石遺構(SV1)の周縁部には柱穴と推定されるピットと周溝があることから上屋をもつ建物跡と推定されるが、同遺跡で見つかっている柄鏡形敷石住居とは掘り方の深さや平面形が異なる。」(谷口 康浩2017「柄鏡形住居研究の論点と課題整理」『国史学』第223号:21.

 

「SV1は、他の調査地点の緑川東遺跡や周辺遺跡の柄鏡形住居の事例をみると、主体部の規模や竪穴の構造において何ら大きく異なる点がみつからない。また、敷石の間隙に小礫を埋める手法や対ピットが存在すること、柄鏡形住居の構造で特徴的な主軸を中心として左右対称である点、石棒が2本ずつ左右に配置されている点、石の敷き方で奥壁部空間や出入口部の石のない空間が存在する点などに柄鏡形住居の特徴がみられる。」(本橋 恵美子2018「東京都国立市緑川東遺跡の敷石遺構SV1について」『東京考古』第36号:125.

 

前者の「掘り方の深さや平面形が異なる」は「特殊遺構説」、後者の「主体部の規模や竪穴の構造において何ら大きく異なる点がみつからない」は「一般住居説」である。

ある一つの遺構に対して、ここまで異なる見解が生じているということが、他の世界の人びと、例えば物理学の研究者や運送業に従事する人びとは到底理解できないだろう。

果して、この両者に折り合える余地、妥協点は見出せるのだろうか?

見出せないにしても、そのメカニズム(なぜ相反する見解を有するに至ったのか)を明らかにする必要があるだろう。

前回記事にて示したように東京都八王子市小田野遺跡のSI08・09という遺構についても、「特殊な遺構」とする研究者(村田、百瀬、和田ほか)に対して、山本2017では「そうした立場はとらない」と明言している。


小田野SI08・09について特殊な遺構とはみなさないとする根拠について、山本2017では「…別に触れている(山本2010a・b)ので詳細は略すが…」として、詳細な説明は省略されて代わりに2点の文献が示されていたが、この2点の文献は実は1点の文献である(山本2010a「柄鏡形(敷石)住居址研究をめぐる最近の研究動向について」『柄鏡形(敷石)住居と縄文社会』3-31頁、山本2010b『柄鏡形(敷石)住居と縄文社会』)。

山本2010aとして示されている箇所(山本2010a『柄鏡形(敷石)住居と縄文社会』の第1章 第1節)を読んだが、当該箇所において小田野遺跡について「触れている」記述は見当たらない。
「触れている」のは、どうやらその後の節(第1章 第2節)のようである。ちなみに山本2010『柄鏡形(敷石)住居と縄文社会』の第1章 第1節「柄鏡形(敷石)住居址をめぐる最近の研究動向について」は、同書の「3-31頁」ではなく「3-22頁」であり、第2節「その後の柄鏡形(敷石)住居址研究をめぐって」が「23-31頁」に掲載されている。「3-31頁」に該当するのは「第1章 柄鏡形(敷石)住居址研究の現段階」である。

「大規模な柄鏡形敷石住居址を主体とする集落址として注目された、東京都八王子市小田野遺跡の報告書が吾妻考古学研究所より刊行された(相川他 2009)。発見された遺構の中で、とくに目を引くのが、SI008とSI009の重複する柄鏡形敷石住居である。あたかも張出部を共有するかのように対向して構築されているが、そのうち、SI008号住は、敷石上面と壁際にかけて多量の石積みがなされた特徴を有しており、柄鏡形敷石住居の廃絶過程を知るうえで貴重な事例といえよう。時期は称名寺Ⅰ式段階に相当する。環礫方形配石や周堤礫が住居使用時から存在したとする考え方は、本例からみても見直さざるをえないだろう。」(山本2010「第2節 その後の柄鏡形(敷石)住居址研究をめぐって」『柄鏡形(敷石)住居と縄文社会』:30. 初出は2010.3 『縄文時代における柄鏡形(敷石)住居址の研究 独立行政法人日本学術振興会科学研究費基盤研究(C)平成19~21年度研究成果報告書』)

この記述をもって「詳細は略」されてしまえば、読者は何のことやら訳が分からないであろう。

小田野遺跡のSI08・10によって、「環礫方形配石や周堤礫が住居使用時から存在したとする考え方は」なぜ「見直さざるをえない」のだろうか?
その背景には、深い要因が潜んでいるようだ。

「儀礼行為のタイミングをどのように捉えるかによって、儀礼そのものの性格の理解や解釈にも違いが生じてしまう。一例を挙げれば、張出部に接続するように構築された配石遺構について、山本は住居廃絶儀礼の一環と見るのに対して(山本1998)、石坂茂は柄鏡形住居に伴う構造の一部と判断して山本説に反論している(石坂2017)。」(谷口2017「柄鏡形住居研究の論点と課題整理」『国史学』第223号:23.)
「柄鏡形住居に伴う周堤礫や前庭部の配石遺構について山本と石坂の理解が対立していたように、遺構や遺跡の形成過程について研究者間に見解の相違が目立っている。緑川東遺跡における大形石棒の遺棄をめぐる議論にも、それが端的に表れていた。事実は一つであっても調査者・研究者の見方や理解は必ずしも一様ではない。見解の相違それ自体は悪いことではないが、水掛け論に陥っては議論が発展しない。反論の応酬ではなく、事例に即した反証が必要とされる。」(同:25.)

どうやら山本氏を始めとする廃棄時説とそれ以外の製作時説の対立という構図は、緑川東のSV1だけで生じているのではなく、「周堤礫や前庭部の配石遺構」あるいは「環礫方形配石遺構」と称される様々な方面でも勃発しているようである。

「柄鏡形(敷石)住居址変遷の後半段階の様相、とくに「環礫方形配石遺構」やそれと関連して、石井が「周堤礫」と呼んでいる(石井1994)柄鏡形敷石住居址の外周を巡るように配石された施設をどうとらえるのかについては、『パネルディスカッション』でも問題にされたように、筆者が考えている「廃屋儀礼」の結果として生じたものとする立場と、石井 寛・秋田 かな子らの当初からの「構造物」とする見解の対立があり、今日まで決着をみていない。」(山本 暉久2010『柄鏡形(敷石)住居と縄文社会』:17.)

その背景には、ここでも述べられているような「廃屋儀礼」あるいは「住居廃絶儀礼」という考え方を、どの遺構にどのように適用するのか、そして「廃屋儀礼」説が成立する前提として、その遺構が一般的な住居であり、その廃絶時すなわち「廃屋」を契機とする儀礼行為を想定する関係上、どの遺構を一般的な住居ではなく特殊な遺構として考えるのかという、さらに根本的な認識問題が存在していることが伺える。

「…その特殊・一般はどこで区別されるのか。環状列石や配石遺構に付随すればそれは特殊な存在なのか。たとえば、大規模な配石遺構を伴う集落址、後期の事例をあげさせてもらうなら、神奈川県下北原遺跡(鈴木1977)や曽屋吹上遺跡はどう評価されるのか。ずっと祭祀センターようなものとして機能し、そこに検出された柄鏡形敷石住居址に居住したひとびとはみな階層化された集団なのだろうか。
筆者が展開した、柄鏡形(敷石)住居址を一般視するかという理解は、これまで(あるいは今も)柄鏡形(敷石)住居址をすべて特殊視化して、特殊施設や家屋として括ってしまう考え方そのものへの批判なのである。」(山本2010:21.)

「水掛け論」に陥らないためには、まず反論する相手の論旨を正しく読み取り、その論に対して適切に反論すること、自らが有効と考える結論に至った論の根拠(論拠:単なる印象ではなく)を明確に提示することが欠かせない。

私は、決して「光明院南のJ1号」や「武蔵台のJ-22住」が特殊な遺構であり、そこで「廃屋儀礼」がなされていないなどとは、考えていない。
そうではなく、「緑川東のSV1」は、遺構構築時に大形石棒が並置された特殊な遺構であり、一般的な住居を再利用した痕跡(例えば大形石棒が並置された箇所に存在した敷石の除去や壁面積石の積み増しなど)は確認できない、と述べているのである。

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伊皿木蟻化(五十嵐彰)

「石敷きの建物跡の底面から、炉跡を挟んで2本ずつ4本が整然と横たわるように出土した。」(They were laid out in an orderly fashion, with two on either side of the remains of a hearth.)
東京国立博物館2018『147 整然と横たえられた大形石棒』
国立市教育委員会は、こうした記述を受け容れたのでしょうか??
by 伊皿木蟻化(五十嵐彰) (2018-07-15 07:23) 

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