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緑川東問題2018(その3) [論文時評]

「後期初頭の敷石遺構床面から四本並んで出土した石棒が重要文化財に指定され、企画展や研究会が開催された。緑川東問題とは、この石棒が敷石廃絶時に置かれたものとする報告書の見解に対し、敷石敷設時から置かれていたとも考えられることを端緒に、「敷石=住居説」や「石棒は樹立されるもの」という前提への異議を唱えた五十嵐 彰の語であり、様々な見解が提示されている。また、国史学会で柄鏡形敷石住居に関する研究会が開催され、その成果が刊行されている。この中で谷口康浩・山本暉久が緑川東例の評価も含め、それぞれの立場から研究の現状と論点・課題をまとめている。」(中村 耕作2018「縄文時代」『史学雑誌』第127編 第5号(2017年の歴史学界 -回顧と展望-)史学会:19-20、参考文献は引用略)

ということで、昨年末に提出された文章について確認する。

谷口 康浩2017b「柄鏡形住居研究の論点と課題整理」『国史学』第223号:1-31.

「東京都緑川東遺跡では、完形の大形石棒4本が、深い掘り込みをもつ敷石遺構の中央部に向きを揃えて並列して埋設された状態で発見された。敷石遺構の周縁部には柱穴と推定されるピットと周溝があることから上屋をもつ建物跡と推定されるが、同遺跡で見つかっている柄鏡形敷石住居とは掘り方の深さや平面形が異なる。前述のとおり、四本の真下には墓壙を彷彿とさせる細長い土坑(150×40cm)があり、それを覆って石棒と敷石が置かれている。四本が同時に埋められた点は疑いないが、筆者の観察所見では、二段笠形の三本にたいして一段笠形の一本は頭部形態や石材の材質が異なり、やや風化が進んでいる。製作時期や保管場所が異なるものが、最終的にここに集められて一括して埋められた可能性が高い。」(21-22.)

これは、谷口2017a『縄文時代の社会複雑化と儀礼祭祀』150頁で示された文章とほぼ同一のものである。
僅かな違いは、一括埋没の可能性について「可能性がある」から「可能性が高い」に確度が高まったぐらいである。
4本の内実については、既に頭部形態の違い(3:1)といった外見的なことから、石材原産地の違い(2:2)に、議論は移行しているのではないか。

「前述した東京都緑川東遺跡の事例についても、敷石遺構の構築、大形石棒の遺棄を含めた行為の流れや時間的経過に対する事実認識が研究者によって異なり、解釈が分かれる事態となっている(五十嵐2016)。これもまた事実認定の違いが異なった解釈を導くことをあらためて浮き彫りにした。
石棒を用いた儀礼に限ってみても、儀礼的行為の実際は予想以上に複雑である。予断を持たず、行為の痕跡とその流れを現場で観察・記録することが肝要である。また、儀礼行為そのものの流れだけでなく、柄鏡形住居自体のライフサイクルを具体的に検討する必要もある。柄鏡形敷石住居における敷石のタイミングもすべてが当初の建築時であったかどうかは予断を許さない。いま問題にしている儀礼的行為のタイミングやプロセスも、行為の場となった柄鏡形住居自体の時間的流れの中に位置づける観察視点が必要になる。すなわち、遺跡形成論の視点である。」(23. 下線引用者)

この場合の「予断」とは、具体的にどのようなことを指しているのだろうか?

「石棒の使用(祭祀)とは、どこかある<場>において石棒を樹立させることであり樹立させた使用(祭祀)後の石棒は廃屋儀礼に伴って廃棄されるといった暗黙の前提(確証バイアス)を、「一度冷静になって」見直す必要があるのではないか。」(五十嵐2016「緑川東問題」『東京考古』第34号:12.)

山本 暉久2017「柄鏡形(敷石)住居址研究をめぐる近年の動向について」『国史学』第223号:33-71.

「石棒をめぐる問題は多岐にわたっているが、ここでは、最近議論が活発に行われている東京都国立市緑川東遺跡第27地点から発見された完形石棒四本が並置された「敷石遺構SV1」(和田他2014)の評価をめぐる問題に焦点を当てて触れてみたい。この遺構をめぐっては、多くの研究者が論議に加わっており、関連する文献も多数発表されている。俗に「緑川東問題」(五十嵐2016)と称されているようであるが、問題は、SV1(「敷石遺構」は以下略す)より検出された四本の完形石棒がいつ置かれたのかについての議論、すなわち、SV1が構築された時点に設置されたのか(五十嵐2016・2017a・bなど)、そうではなく、廃絶時に敷石や炉跡を除去した後に設置されたのか(黒尾2014・2016・2017ほか)という対立と論争である。筆者は、発見時に清水 周氏の連絡により現地で見学する機会を得たが、その時の印象は、完形大形石棒が四本並置されているという特異性はあるものの、柄鏡形敷石住居の廃絶に伴う廃屋儀礼という印象をいだいた。その後の調査と分析の結果、この遺構は炉址が検出されなかったため、柄鏡形敷石住居址ではなく、「敷石遺構」として取り扱われるようになっている。2017年2月に、この問題について、公開討論会(東京考古談話会編2017a)が開催され、五十嵐と黒尾による対立点が浮き彫りにされ、その記録も、5月にまとめられている(東京考古談話会編2017b)。
先に筆者の見解を示しておく。SV1は、柄鏡形敷石住居として構築され、集落で行われた石棒祭祀の終わりにあたって、四本の石棒を柄鏡形敷石住居内に配置し、廃絶に伴いプラン壁際に配石行為が行われた廃屋儀礼を示すものと考える。なお、石棒が設置されていた部分はもともと敷石がなかったのか、除去したのかは不明であり、炉址は確認されていない。そもそも、石棒が樹立、横位に置かれたか、あるいはその状態が破損、破砕されたものか、完形であったのか、などといった個々の事例に違いはあるにせよ、中期末・後期初頭期には、柄鏡形(敷石)住居址内から出土するのが通例で、SV1のように完形四本は稀ではあるものの、そうした傾向から逸脱したものではないと考える。問題は、この柄鏡形敷石住居が構築され、どの程度の時間が経過したのちに、石棒が置かれたのかという点であるが、炉址の存在が明瞭でないことからすると、構築後あまり居住されないうちに、廃絶に至り、石棒を用いた廃屋儀礼が行われたのではないだろうか。」(42-43.)

2017年2月に行われた公開討論会における廃棄時論者の発言に関連して、「印象主義」という感想を述べたことがあったが(「緑川東の最終問題」【2017-09-02】)、そうした思いを再確認させられる文章である。

「五十嵐の考え方もそうなのだが、このような特殊な遺構の姿や遺物に触れると、遺構そのものを特殊視する傾向が強い。和田 哲もその一人である(和田2014a・b・2015・2016)。報告書においても、「敷石遺構SV1は通常の敷石住居に見られるように、単に縁石をめぐらすだけでなく、その上の壁面に全面的に礫を積み上げるため、縁石は一般的敷石住居より大き目の、最大長径50cmもある大礫を使用したものと考える」(169頁)として、奥壁部の積み石を構築当初からあったと認識している。また、関連する遺構として、東京都八王子市小田野遺跡から検出されたSI08・10(相川他2009)との対比を試みている。この重複する柄鏡形敷石住居址事例については、別に村田文夫や百瀬貴子らによっても特殊な遺構とする認識が示されている(村田2011、百瀬2012)が、別に触れている(山本2010a・b)ので詳細は略すが、筆者はそうした立場はとらない。」(44.)

興味深い意見が、提示されている。
すなわち、「特殊な遺構」を「特殊視する」「立場はとらない。」
だから小田野SI08・10も「特殊な遺構とする」「立場はとらない。」

これはもはや「事実認定の違いが異なった解釈を導く」(谷口前掲)といったレベルの問題ではない。
これは、並置された4本の大形石棒について「とてつもない」とする評価に対して、それらは決して「とてつもなくない」と主張する人に「とてつもない」ということを説得することが困難であることと同じである。

SV1の「奥壁部の積み石を構築当初からあったと」する「立場はとらない。」
すなわちSV1の壁面の積み石は、4本の大形石棒と共に遺構廃棄時に構築された。
遺構製作時に構築された床面の敷石と壁面の積み石は時期を違えた所産である。
しかし、その論拠は示されない。
もちろん石棒設置廃棄時説に立つ緑川東の考古誌にも、そのようなことは一切記されていない。

「SV1に検出された床下土坑については、墓坑の可能性について、中村も指摘している(5頁)ように、べつに安孫子昭二(2015)らがすでに言及しており、八王子市小田野遺跡SI08と10との類似性も安孫子が同書で指摘している。この床下土坑については、中村は、「石棒設置時には土坑は見えないこととなる」ことから、「家屋墓(住居床下墓坑)」(5頁)としてとらえ、居住時に構築されたものか、もしくは構築時には埋め戻されているので、廃屋墓とは区別している。また、床面倒置土器についても言及し、「中期末葉~後期初頭の埋葬空間としての張出部」を考慮し、「まず、床下土坑に埋葬し、部分的に敷石敷設しつつ、全面には敷石せず、廃絶時にあらためて石棒と遺体を配置した可能性も考慮しうるだろう」(9頁)と述べている。SV1を張出部と認識する前提で、類例に当たっているので、その点は疑問なしに非ずであるが、張出部と墓との関係については後述したい。筆者には「床下土坑1」は、その検出位置や並置された石棒との検出状況から判断すると炉址の蓋然性が高いと思われるが、焼土や被熱痕跡がないことから、炉址とする考え方は否定されている。しかし、炉址であってもそのような検出状態もないわけではないので、前述したように構築後間もない時期にこの住居は廃絶に至ったとも考えられ、炉址としての可能性も考慮しておきたい。」(45-46.)

SV1の「床下土坑D1」が炉址であったとしたら、「遺跡形成論の視点」(谷口前掲)からどのようなことになるだろうか?
まず遺構製作時の敷石と炉としての「床下土坑D1」の構築 → 炉使用後の廃棄時に炉を覆う敷石の敷設と大形石棒の並置そして壁面積石の構築といった複雑で込み入ったシナリオを描かざるを得ない。
これまでの柄鏡形敷石住居の炉址とされている中で、その一部が敷石で覆われている(炉の使用後に敷石が敷設された)報告例を示すことで、遺構の製作時ではなく廃棄時に、敷石や「プラン壁際に配石行為が行われた」こと、すなわち壁面に積石を積み増すような遺構廃棄時の形成過程が、決して特殊な事例ではなく一般的であることを示す必要があるのではないか。

「…何らかの考古事象の観察によって「敷石の除去」という判断がなされて、その結果として「廃棄時設置」という結論が導かれたのではなく、最初に「廃棄時設置」という結論があり、そのことを補強するために「敷石の除去」という説明が持ち出されたのではないか、という疑念である。そこにあるのは、考古事象の観察によって判断・解釈が導かれるのではなく、予め特定の判断・解釈が設定された上で、そのことを説明するために曖昧な仮定が持ち出されたという転倒した思考である。こうした脈絡の背後に見え隠れするのが、「石棒の廃絶儀礼」という私たちを呪縛する考え方である。」(五十嵐2017「緑川東・廃棄時設置という隘路」『東京の遺跡』第107号:4.)

「そして6月30日、覆土下層の多量の遺物のあいだから4本もの大型石棒が現れた。」(細野 貴志・渋江 芳浩2014「試掘・本調査の経過と結果」『緑川東遺跡 -第27地点-』:9.)
本日は、6年目の「石棒の日」である。


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