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「緑川東遺跡とくにたちの縄文時代」 [研究集会]

「緑川東遺跡とくにたちの縄文時代」
日時:2017年10月29日(日)13時~15時30分
場所:くにたち郷土文化館
主催:国立市教育委員会

1. 「国立の縄文時代と緑川東遺跡」(和田 哲)
2. 「敷石遺構SV1出土石棒の「並置」のタイミング」(黒尾 和久)
3. 「炭素14年代・同位体分析からみた縄紋中・後期の文化様相」(小林 謙一)

緑川東遺跡SV1出土の石棒が国の重要文化財に指定されたことを記念した特別展「国指定重要文化財 緑川東遺跡出土 石棒展」に関連する講演会の前半戦である。台風が近づく悪天候のなか、多くの熱心な方々が集まられた。
対話を通じて、かねてより抱いていたいくつかの疑念を解消することができた。

まず当初からSV1について「単なる敷石遺構ではなく特別な祭祀的空間と理解される」(和田2014:174.)としながらも「石棒はわざわざ敷石を剥がし、その下面を平らにならし、揃えて置かれたと考えられる」(同:173.)とするのは、いったいどういうことなのか、敷石を剥がす前のSV1は特殊な遺構なのか、それとも一般的な住居なのか、もし特殊な遺構ならいったいどのような状態をイメージされているのか理解が困難であったのだが、今回直接お話しを伺い、どうやら敷石を剥がす以前のSV1については、小田野SI08のような状態を想定されていることがうかがえた。とするならば、石棒が並置されたSV1の中心部には最初から炉や敷石は存在せず土が露出した状態あるいは何らかの有機質で覆われた状態であったことになる。これは一般的な住居の中心部に設置された炉およびその周辺の敷石を剥がして石棒を設置したとする「一般住居再利用説」における「敷石除去」とは、その意味合いが大きく異なるのではないか?
和田氏の「敷石除去」には、一般的住居の特徴とされる炉の除去は全く想定されていないのである。大形石棒が設置された場所である遺構中央部の敷石や炉を剥がしたのではなく、どうやら大形石棒が設置された場所(そこは最初から敷石は設置されていない)以外の周囲に存在していた敷石を剥がしたということのようである。しかし当日の配布資料でも「私の見解 ②、4本の石棒は敷石を剥がし、ならして設置された」とだけ記されており、「一般住居再利用説」が前提とする炉を含む遺構中央部の敷石除去との違いが明確に表現されているとはとても言い難い。もう少し丁寧な説明が必要なのではないか?

また敷石除去の根拠として、配布資料では記されていなかったが、口頭発表では新たに敷石の間を埋めるように残された「埋め石」?の残存状況についても言及されていた。今後の検討課題であろう。

黒尾氏の配布資料「敷石遺構SV1出土石棒の「並置」タイミング」は、考古誌『緑川東遺跡 -第27地点-』の131-132頁の再録(一部加筆)である。「つかいまわし」も2月19日の公開討論会「緑川東遺跡の大形石棒について考える」資料集に次いで2回目である。取り巻く状況がこれだけ変化しているのである。さすがに「賞味期限」が切れているのではないか?

それに対して特別展のパンフレット(無償配布)では、新たな論考(中村 耕作2017「緑川東遺跡SV1をめぐる論点」『石棒展』:11-15.)が掲載された。

「当初SV1は敷石住居の主体部と考えられたが、炉が見当たらないという問題があり、後述するように特殊な施設という見方が提示された。これに対し、和田哲氏は八王子市小田野遺跡の事例を挙げて、SV1北東に隣接する竪穴住居跡SI2とされた遺構(以下、SI2)との一体的な遺構であることを逸早く主張した。その後、2017年2月に東京考古談話会が開催した公開討論会では、SI2が主体部、SV1が張出部の可能性が指摘され、筆者もそれを前提とした論考を発表した。」(中村2017:11.)

2月19日に開催された公開討論会の場では、「SI2が主体部、SV1が張出部の可能性」という「180℃回転説」についての言及はなかったのではないか? 公開討論会での発言が後日記録化された際に、黒尾氏が「追記1」として追記したように、このことは「討論では言及されず、討論後の懇親会で…改めて説明した」(黒尾2017「追記1」『東京考古』第35号:20.)のではなかったか? だからこそ当日の発言記録の最後に「追記」と題する文章が校正後に追加されたのではなかったか? 些事ではあるが、和田氏が本件について強く否定されていたこともあり、後日のためにも確認しておく。

なお本論考の「図1 主要な石棒の大きさ」と題する挿図では、「東京・忠生D 55cm」から「長野・北沢 213cm」に至るまで緑川東出土の4点を含む全57点の大形石棒が大きさ順にそのプロフィールで示されている。労作である。何よりも石棒の図(実測図、模式図をとわず)を提示する際に、初めて「横置き」で提示されたことに本挿図が提起する大きな意義がある。石棒実測図変遷史(すなわち石棒なる考古資料を私たちはどのように考えて提示してきたか、そしてこれからどのように考えていくか)における一つの大きな転機となるだろう。

後半戦(11月19日)までのハーフタイムに、こちらの戦略も練り直したい。

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中村耕作

紙数の関係で明記しておりませんが、拙稿の石棒横置き図は五十嵐さんのブログから受け取った問題意識(あれらはとてつもないものなのか?(石棒一般がとてつもないのか、石棒の中でとてつもないのか?)と、縦置き横置きの問題の2つの問題)に触発されて作成したものです(次回の配付資料には、出典とともに、その点も明記します)。
「石棒実測図変遷史」は、きちんとまとめる意義があると思います。

by 中村耕作 (2017-11-04 18:46) 

伊皿木蟻化(五十嵐彰)

「あれら」は個別でも「とてつもない」と思いますが、「4本並置」という点でさらに輪をかけて「とてつもない」と思います。ですからあの中の2本だけ展示などという在り方は、どのような事情が作用したか知る由もありませんが、とうてい容認できない訳です。「縦横問題」は私たちの日常生活を見ても、例えば箸からスプーン・フォークに至るまで、私たちの文化様式に深く根差した問題であることがすぐさま了解されるでしょう。
by 伊皿木蟻化(五十嵐彰) (2017-11-04 21:33) 

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