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荒井1995『戦争責任論』 [全方位書評]

荒井 信一 1995 『戦争責任論 -現代史からの問い-』岩波書店(2005 岩波現代文庫)

「ちょうど2年ほど前、ある未知の婦人から手紙をいただいた。この人は戦後の1947年生まれで、直接の戦争体験はないが、父親は元憲兵であった。父は、小学生の頃「私は貝になりたい」「人間の条件」などを見にゆかせたり、何かにつけ天皇を批判していたが、自らの加害の事実については何も語らなかった。しかし、7年前に亡くなる時に、これを墓に彫りつけてくれといって、娘に紙を渡した。そこには「中国人民ニ対シテ為シタル行為ハ申シ訳ナク、只管オ詫ビ申シ上ゲマス」と書かれていた。父の遺言を墓石に刻むことは、兄弟や親戚の賛成が得られず実現できなかった。そのことは、娘であるこの人の心に重い負担として意識されたようである。手紙は続けて次のように書いている。「父が亡くなってから、父が可哀相で、私は父が満州でどんなことをやったのか調べて共に苦しもうと思いました」。そこで名簿で83歳の元隊長が生存しているのをつきとめて、その話をきいたのだが「楽しい思い出と戦後の引き揚げの大変さを話すばかりで肝心のことは話してくれませんでした。「あそこは何もなかった」と言うのです」。こうして父と共に苦しむ旅は成果を挙げなかった。手紙はこのような経過をかいた後で「そのような事もあり、私はずっとこの戦争を引きずっております。自分の生まれる以前のことなのに、目をつむるわけにはいかないのです。もっと他の人々のように軽く生きていければいいのにできません」と結んでいる。(中略)
このように自己を超えて他者(父)と共有する罪の意識が、ヤスパースのいう「形而上的な罪」の意識であろう。ヤスパースはこの罪のもたらす結果について「神の御前で人間の自覚に変化が生ずる。誇りがくじかれる。内面的な行動によるこの生まれ変わりは、能動的な行き方の新たな源泉となることができる」と要約している。罪の意識と責任意識とはもちろん同じものではない。罪は客観的に存在するが、責任はより直接的に人間の行動と結びつくものである。ヤスパースの「4つの罪の概念」のうち、「形而上的な罪」は人間の能動的な行き方の新たな源泉となることができる点で、この時期の主体的な戦争責任論と共鳴しうる概念であり、そこにこの時期の戦争責任論がヤスパースに注目した理由があった。」(236-8.)

こうした考えに至るには、もちろん原体験というべきものがあった。

「太平洋戦争がはじまったとき、わたしは旧制中学の4年生だった。海軍兵学校や陸軍士官学校に進学する仲間がふえてはいたが、比較的リベラルな東京・山の手の私立中学は、まだどっぷりと戦争にひたってはいなかった。1943年の春、わたしは旧制高校に進学したが、戦争の影響が深刻になりはじめたのは、その年の秋ごろからだった。まず9月に東条英機首相のラジオ演説があり、そこで文科系学生の徴兵猶予取り消しと、徴兵年齢の1歳引き下げという決定を知らされた。大学を卒業してから兵隊にいけばよい、とのんきにかまえていたが、2年後には学業なかばにして兵隊ゆきを覚悟しなければならなくなった。この年の12月には、学徒出陣の壮行式がはなばなしくおこなわれた。クラスからも二人出陣していった。しかし、ほんとうに戦争の影響が深刻になってきたのは、1944年春、2年生に進級してからである。そのころには高等学校の修業年限が3年から2年に短縮されていたが、翌年3月の卒業式に出席できたのは、40人のクラスメートのうち12~13人にすぎず、残りは全部、兵隊にいったのである。授業もなくなった。6月から卒業まで2年生全員が、神奈川県川崎の自動車工場に動員されたからである。動員先の寮の食事は、毎日茶殻入りの雑炊で、わたしたちはいつも腹をすかせていた。
わたしの動員された川崎の自動車工場でも、厭戦気分がいつのまにかひろまっていた。本工の不足をおぎなうため、民間から徴用された工員と動員学徒が多く、腕も未熟であった。資材も不足していて生産が上がらず、勤労意欲も失われていた。そういうなかで、日本の抗戦力に深刻な疑問を感じざるをえなかった。(中略)
あるときふと気がついて、旋盤についている金属プレートをみてびっくりした。プレートには生産国やメーカーが表示されていたが、その大部分は「メイド・イン・USA」「メイド・イン・ジャーマニー」であった。ドイツはともかくも同盟国であるが、アメリカ合衆国は敵国である。軍事産業の重要な一角をしめる自動車工業が、戦争の相手国であるアメリカ製の工作機械なしには稼働できない事実は、戦争の前途に希望がなくなりつつあるときだけに身にしみた。」(荒井 信一1988『日本の敗戦』岩波ブックレット シリーズ昭和史No.8:2-4.)

「1945年8月、私は陸軍二等兵として茨城の海岸に近い農村にいた。関東平野の東端は太平洋に面し、とくに千葉の九十九里浜から茨城の福島県境にいたるまでは平坦な海岸線が長大に連なっている。(中略)
私が、19歳の初年兵として入営したのは、この年の6月であった。本土決戦用に急造された砲兵連隊で、一月ほどしてから茨城の海岸に移動した。(中略)
われわれの部隊も、天皇のいう「新設師団」と同じ状況だった。大砲(山砲)は三門しかなかった。われわれ新兵はもちろん兵隊の大部分は軍服を着ているだけの丸腰であった。米軍が上陸してきたら、できるのは逃げることだけだというのが実感だった。(中略)
19歳の新兵たちは、つかの間の解放を楽しんだが、古兵たちはそうでなかった。かれらは軍隊流にいえば、大正10年兵から15年兵であった。1921年から1926年にかけて徴兵検査をうけて入営した中年の兵隊たちである。当然かれらは中国との戦争に従軍体験があり、中国の戦場で占領者として振舞った経験があった。かれらにとって占領とは住民に対するほしいままな略奪、暴行を意味した。古兵たちは自分たちの中国体験から、占領軍の行動を予測していた。来るべき連合軍の占領とアメリカ兵の暴虐から財産と家族をどう守るか、かれらは毎晩、額を寄せ合ってひそひそと対策をねった。話の内容は、一緒に起居しているわれわれにも筒抜けになった。私はそのときの古兵の話から、聖戦とのみ教えられてきた中国との戦争がそうではなかったことをはじめて知って愕然とした。」(荒井 信一2006『歴史和解は可能か』岩波書店:151-153.)

初めてお会いしたのは、2010年の韓国・朝鮮文化財返還問題連絡会議の立ち上げシンポジウムの時だった。それ以来、例会のたびに、その謦咳に接し、最晩年に至るまで衰えを見せない知的な関心、明晰な判断力に驚き、自分もこうありたいと会うたびに思わされた方であった。私が考古学をやっていると知って、自分が学生時代に教わった原田 淑人氏の逸話などを語ってくれた。正に「碩学」という言葉を体現されている方であった。

「たしかにこの世紀(20世紀)に、人々の戦争観は徐々に転換し、戦争を違法化するための制度や装置もしだいに形づくられてきた。その歩みは遅々として、戦争のもたらした巨大な犠牲を償うためには、あまりにも均衡を欠いているが、来るべき世紀において戦争を防止するためには、単なる平和ではなく、平和の質が問われなければならないことが明らかにされてきているといえるのではないか。
平和とはたしかに国際秩序であり、それはまず国と国とのヨコの関係として観念されるのが普通である。国の外交政策を規定する国内的要因は、国家および地域間の不平等な格差を含む世界システムの問題でもある。環境破壊と南北間格差の是正、経済的繁栄と福祉の増進、人権の拡充とさまざまな差別の解消などがそれであり、これらの問題の解決が、平和と不可分の国際協力の課題として認識されなければならない。とくに身体と生命の安全が、人権の出発点であり人権の筆頭におかれるべき価値とすれば、平和とはまず人権を基礎とし、人権の尊重を保障する体制でなければならない。」(311-312.)

「目をつむるわけにはいかない」という形而上的な罪の意識から戦争責任、平和構築、歴史和解、植民地主義の克服そして文化財返還に至ったのであった。残された私たちは、その遺志をしっかりと受け継ぎ育てていく責務がある。
「日本の良心」と追悼された。それが国内からではなく隣国からなされたということに、なされた仕事の大きさ・確かさ・正しさが証しされている。今までのご厚情・導き、有難うございました。


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