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山本2017「マテリアリティとしての敷石とその場所が創る特異な景観」 [論文時評]

山本 典幸 2017 「マテリアリティとしての敷石とその場所が創る特異な景観 -縄文時代中期終末の石棒を残す敷石遺構-」『理論考古学の実践』Ⅱ 実践編、安斎 正人編、同成社:204-234.

「前稿の註8(山本典2016a:225-226)で、緑川東遺跡の敷石遺構SV1の機能や大型石棒のライフサイクルに関する問題提起に加えて、それらの分析経過と予測を述べた。少し長いが、一部の文章を入れ替えるとともに遺構名や遺物名、挿図の引用箇所などを補足した上で、以下に示す。」(206.)
として、旧稿の文章がほぼそのまま再録されている。その旧稿の文章については、五十嵐2016「緑川東問題」:17.にて、以下のように述べた。
「「まるで置かれていたかのような状態」とは、「置かれていたように見えるが、実は置かれていない」という理解を示している。「4本のほぼ未使用と推測された」という根拠も不明である。」(五十嵐2016:17.)

ところが、こうした事柄に関する応答は記されていない。というより五十嵐2016「緑川東問題」という論稿そのものに関する言及が一切なく、「引用・参考文献」にも挙げられていない。引用・参考に値しないとの判断なのだろう。同じような主題である前回紹介した中村2017と大きく異なる点である。

「敷石遺構SV1は、立川段丘よりも一段下に広がる青柳段丘面の第27地点から検出された。その遺構の構築前には、長径150cmの細長い形態の土坑(D1)が掘り込まれている。深さは10~15cm程度である。敷石の一部が覆っているため敷石遺構SV1よりも古く、「床下土坑」と名付けられた。」(208-210.)

どうやら筆者は、敷石遺構SV1と床下土坑D1は、異なる別の遺構と理解しているようだ。
しかし、その根拠は記されていない。

「大型石棒は、社会集団の安寧や存続などをもたらし、社会集団に取り憑く/憑依する悪霊を追い払う力を内包した呪物ないし霊物として広く働いていたと考えたい。その役割に用いるために大型石棒を保管・管理した場所は、礫石を敷設した施設内であった。ただし、4本の大型石棒が最初から敷石遺構内に揃っていたのか、順次加わったのか、礫石が敷設されていないスペースを含めてもともと5本以上が用意されていたのか、周辺遺跡に同じ石材を使った同形態の大型石棒が欠損状態で出土していることから補完の可能性は考えられないのか、4本の大型石棒の間にどの程度の使用頻度の差異が生じていたのかなどに関しては未解決の問題点である。」(221-222.)

「緑川東遺跡の敷石遺構SV1に保管されていた大型石棒は、技術で処理できない課題を超自然的な力をもつ呪物によって解決するためにいくつかの集落に持ち出され、役割を果たした後に再び敷石遺構SV1に戻される。その行為が何度か繰り返される過程で、誇大ないし誇張された石棒を用いても機能を充足できなくなった場合、大型石棒に悪霊を乗り移らせた後、その悪霊の浄化ないしすでに起きた災禍や災厄の再発回避を祈願するために、火にかけるという行為を併用したのではないだろうか。」(222.)

筆者は、緑川東のSV1を大形石棒の「保管・管理した場所」すなわち使用の際にはそこから取り出し、使用の後にはそこに再び収納する倉庫のようなものとしてイメージしている。「保管庫説」の前提は、大形石棒の最終使用形態は、一般的な敷石住居の「床面に置かれた状態で最終的に火を受ける」(222.)というものである。だから火を受けていないSV1の4本の大形石棒は最終の使用形態ではなく、あくまでもそこに至る前段階である「保管」という解釈になる。この点が他の論者(廃棄時説も含めて)と根本的に異なる点であろう。

「緑川東遺跡の4本の大型石棒は、敷石遺構SV1に置かれることによって機能していたと考えられる。考古学的には礫石の敷設と同時期の中期終末である。ただし、一度に4本を置いたか否かを判断できる状況証拠はみられない。視覚的に石棒2と石棒4の間隔を強調する言説も見受けられるが、不確かである。」(226.)

207頁では「まるで置かれていたかのような状態で見つかった」と記して「置かれていない」という理解を提示しているにも関わらず、227頁では「敷石遺構SV1に置かれることによって機能していた」とする。いったい「置かれていた」のか、それとも「置かれていない」のか、読者は戸惑うばかりである。
また「石棒2と石棒4の間隔を強調する言説」とは、いったい誰のどのような言説なのか、漠然としていて確かめようがない。

「礫石の移動や分割行為などを反映する接合状況を確認できないため、構築から廃絶までの礫石の位置や状態はほとんど不変であろう。その一方、上屋が廃絶時だけでなく廃絶後も存在していたか否かはわからない反面、柱穴の土層堆積に関する挿図(渋江編2014:20)を見る限り、柱が立った状態の敷石遺構SV1とその内部に4本の石棒を放置したままの空間は保持されていた。その時間に中津系が該当する。
出土位置別にみた土器型式の出現頻度と柱穴の土層堆積に関する記載から、敷石遺構SV1は、石棒の保管場所としての役割を終えた後期初頭中津系の時期においても、柱が立ったままの状態で敷石遺構として立体的な存在様態を維持していたことを自然に容認できるわけである。」(227.)

この文章から筆者はどうやら一般住居の再利用説(敷石除去)ではないらしいことが伺える。

筆者が「自然に容認できる」とされる「柱が立ったままの状態」とする解釈の根拠は、繰り返し述べられる「柱穴の土層堆積に関する挿図」である。しかし一方で「縄文時代の遺構調査において判断しにくい柱痕」(207.)とも述べられている。どういうことだろうか? 一般的には「判断しにくい」のだが、緑川東のSV1の場合は特殊な状況で「判断し易かった」ということなのだろうか?

「北関東の大山東・西南麓や西関東の酒匂川上流域辺りから、粗い研磨段階の製作状態で搬出した大型石棒は、まず緑川東遺跡の敷石遺構SV1のような場所に保管される。この時点で、さらに丁寧な研磨を伴う行為を介在させた可能性がある。そして、それらの大型石棒は、呪物に関する人類学的・民俗学的な成果を方法論に用いたならば、個々の住居や集落の開村、維持、安定などを脅かす「たち」の悪い精霊対策用の呪物として機能したと推測できるだろう。その後、明瞭な痕跡を残さないものの、近隣の集落で役割を果たした大型石棒は使用ごとに廃棄されるのではなく、後々の再利用のために緑川東遺跡の敷石遺構SV1ないしそれと同じ機能をもつ保管場所に戻されていく。しかしながら、現状において、同じような形態と規模の保管場所が関東地方に複数存在していたか否か、保管場所と使用場所の間にどの程度の頻度で搬出/搬入行為が執り行われていたかはわからない。」(228-229.)

「保管場所」説の前に、特殊な遺構なのか一般住居の再利用なのか、遺構製作時の設置なのか廃棄時の設置なのか、それよりも何よりも置かれていたのか置かれていなかったのかという点を明らかにする必要があろう。
景観論やマテリアリティ以前に、「並置」に対して「横倒し」(207.)や「放置」(228,229)では、受け止め方が大きく異なるからである。

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