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鈴木2007-2009「樹立される石棒」 [論文時評]

鈴木 素行2007・2008・2009「樹立される石棒(上)・(中)・(下) -石棒研究史を学ぶ(中編)-」『茨城県考古学協会誌』第19号:23-53. 第20号:15-44. 第21号:55-91.

「とかく人は、「石棒」を立てたがる」(2007:23. 2008:15. 2009:56.)をキーワードに3年ごしで掲載された研究史である。
男性考古学者が、いかに石棒の「樹立」にこだわっていたか、延々と記されている。亡き恩師も名前を連ねていて切ない(2009:56.)

「石棒研究史を辿りながら、検討のために本稿が準備した視点は、「石棒」が立てられていたと考える根拠に確実な事例はあるのか、立てられていた確実な事例の「石棒」は完形であるのか、という2つに要約される。(中略) 石棒研究史に登場した事例を逐一に検討してみたが、「石棒」が完形のまま立てられていた事例は無く、破片が頭部を上にして立てられていた確実な事例も認められない。写真で目にするこのような光景は、ことごとく近世以降の民間信仰と現代の研究者により創造されたものであった。事例ごとの想定と創造が積み重ねられて、「石棒」は立てられていたことが議論の前提として固定する。完形の「石棒」の法量と形態の印象のみが先行して、小破片についても「直立」「樹立」「屹立」などと形容されることにもなった。」(2009:76.)

衝撃的な内容である。ここで述べられている「想定と創造」は、言い換えれば「捏造」と紙一重である。
ただ「樹立される石棒」ではやや婉曲的で意味が判りづらい。個人的には「バイアグラな男たち」とでもしたいが。

「「石棒」が樹立されるのには、確実な事例があってのことという思い込みは、逐一の検討を進める中で瓦解した。本稿では「樹立」という語句を、倒れていた「石棒」を後世の発見者あるいは研究者が立てることの表現としてのみ使用してある。学習により辿り着いたのは「石棒素材石柱」という理解であった。本義とした「石棒」の祭儀については、「樹立される石棒」の呪縛から離れて思考が展開できないものかという実験を例示したにすぎない。現在の通説に対しては、「石棒異説」とならざるを得なかった。」(2009:77.)

「倒れていた」という語句からして、本来は「立っていた」という暗黙の理解が前提となろう。
人や馬は「倒れていた」というが、蛇やワニは「倒れていた」とは言わない。

「「樹立される石棒」の呪縛から解放されて、現象の合理的な説明を模索し、「石棒」の本義について考察をめぐらせてみたい。」(同)

なぜ未だに「呪縛から解放され」ないのだろうか? 2012年の緑川東以後も。
幾つかの要因が複合している。
未加工の自然石を利用した「石柱」と人為物である「石棒」の意図的あるいは非意図的な混同、「石棒」に関する「完形品」と「破損品」との区別の曖昧さ、「埋められた」と「立てられた」の判別不足などである。最後のケースは、すなわち秋田県才の神遺跡例で示されたように、本来斜めに埋まっていた「石棒」を上半部の大部分を露出させて撮影あるいは図化すると、あたかも本来は樹立していたかのように思われるといったマジック(2009:62.)である。そして何よりも特筆すべきは、長野県上原遺跡(2007:32.)や調布市下布田遺跡(同:35.)、山梨県金生遺跡(2009:55.)といった著名な事例に見られるような「樹立復旧」の効果である。
こうした「樹立復旧」については、竪穴住居跡から出土した完形の縄紋土器の廃棄状態を「樹立復旧」させていた事例が想起される(土井 義夫2016「縄文集落研究と集落全体図」『考古学の地平Ⅰ』:23・24.)。
今ではおよそ考えられないが、当時はこうした手法が何の疑問も感じることなく通用していたのであろう。

倒れていた<もの>を樹立させるといった<もの>操作から、<もの>は動かさずに確認面を引き下げるといった状況操作に至るまで様々な手法を駆使しながら、私たちのイメージがかたち創られてきた訳である。

「「樹立」という未確認の使用法」(谷口 康浩2015「総論 大形石棒の残され方」『考古学ジャーナル』第678号:5.)と「…頭部を地中に差し大地との交合の意図などと考慮すれば、両頭石棒を樹立させる可能性も考えられるが、現状での説明・解釈は困難である」(長田 友也2013「石棒の型式学的検討」『縄文時代』第24号:54.)とでは、果たしてどちらに分があるだろうか?

「縄文人はなぜ石棒を樹立させたのか」といった妄想から、「私たちはなぜ石棒を樹立させたがるのか」という自らの内面に向けた問いに切り替える必要があるだろう。


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コメント 5

硝子

眠れぬ夜に再びのお目汚しご容赦を。
申し訳ありませんが、一読爆笑してしまいました。
何故そんなにも「させたがる」のか?実に面白い。
諦念と共に、脱力せざるを得ません。
とは言え、ここは今こそ、脱力ではなく、脱構築の概念が
必要なのではないでしょうか?
ジェンダーと言うより、デリダ的脱構築déconstructionの
思考方法を再構築reconstructionして取り組むべき問題
であると考えられます。思考実験としても、実に面白いテーマ
ですね。
by 硝子 (2016-12-20 03:02) 

伊皿木蟻化(五十嵐彰)

「直立した性器は墓場とあまり似合わしくないが、それはおそらく現代人の感想にすぎないのであろう。原始人の世界観において、生と死は深く結びついていたのであろう。人は死ぬ。しかしそれは再び生きかえる。男性性器が再生のシンボルでもあったにちがいないのである。」「埋められた遺骸の上に、死に逆行するかのように毅然と直立する男性性器状の石、そこにはやはり死を超えて生き続けようとする原始人の、強い生命の再生の願いが秘められているのであろうか。」(梅原 猛1989「生けるものの永劫回帰 -大地と天界を貫く意思-」『縄文の神秘 -縄文時代-』人間の美術1、学習研究社、鈴木2009:74-75.より重引)
「フロイトの言うには、ヒステリー患者や妄想患者は、例えば靴下を膣に、傷痕を去勢に、まるごとなぞらえることのできる連中である。おそらく彼らは、対象を同時に全体として、しかも失われたものとしてエロチックに把握しているのである。しかし、皮膚を、毛孔、小さな点、小さな傷痕、あるいは小さな穴の多様体としてエロチックに捉えること、靴下を網目の多様体としてエロチックに捉えること、これこそは、神経症患者が思いつかないことで、精神病患者にだけ可能なことである。「われわれは、小さな窪みが多いせいで、神経症患者はこの窪みを、女性の生殖器の代替物として使用することができないと考える。」靴下を膣に比べること、それはまだいい。それは毎日みんながしていることだ。しかし、単なる編み目の集まりを膣の局部と比べること、それはやはり狂気めいたことだ。フロイトはそう言う。」(ドゥルーズ&ガタリ1994『千のプラトー』43.)

by 伊皿木蟻化(五十嵐彰) (2016-12-20 12:32) 

硝子

ハンナ・アーレントのやや俗っぽい言葉を想起します。
「嫌いなひとの真実よりも、好きなひとの嘘がいい」。
経験上、日本の考古学界は、homosociality色が強い、という印象があります。「女は所詮男に劣っている」「学問に『女性性』なんぞ不要」。例えそれが理論的に正しく、実証可能だとしても、女の戯言が真実であるはずはないのです。
その理論と実証が破綻していたとしても、「俺たち」が間違うはずはないのです。
その討論の場に、果たして「女性」(両性含む)は存在するのでしょうか。
生物学的な女性、ということではありません。かつて流行した言葉で言えば、「男性の視点を内面化した女性」がいても無意味です。
しかしそれも詮無きこと、「彼ら」は女性性(特に母性)を棄却してこそ今がある。
せめて想像的父père imaginaire的視点が可能になれば、かなり学問の幅が拡充しそうな気がしますが・・・
っと、またしても爪弾き者が偉そうなことを述べたててしまいました。
何卒ご容赦ください。

by 硝子 (2017-01-02 01:27) 

伊皿木蟻化(五十嵐彰)

欧米系の学界には優れた論文を再録した「論集」(アンソロジー)という伝統があります。考古学を学ぶ学生ならば誰もが読まなければならないものに"Reader in Archaeological Theory. Post-Processual and Cognitive Approaches" ed. David Whitley 1998, Routledge. という本があり、その中に Bernard Knapp という人が書いた"BOYS WILL BE BOYS. Maculinist Approaches to a Gendered Archaeology.”が掲載されています。学部生の頃から、こうしたものを読まされて、基礎知識として身に着けているかいないか、これは大変大きな違いです。
この論集が発行されたのは、1998年です!
「男はふつう女が「好き」である。だから自分は女の味方だと恥ずかしげもなく公言できるのだ。自分が好きな人たちを差別したり、虐待するなどありえないと思っている。多くの男にとっては、女性差別は<無意識>の領域に属することがらである。いや、実は多くの女にとってもそうなのだ(残念なことだが)。差別主義者の特徴は、自分が差別主義者だということを知らないことである。差別発言の指摘を受けた人は「差別のつもりで言ったのではない」と弁解するのを常とする。これ以外の言い訳はありえない。差別とわかっていれば失言するはずはないのだから。それゆえ、差別との戦いは<無意識>との戦いとなる。」(織田元子1988『フェミニズム批評 -理論化をめざして-』勁草書房
この本の発行は、1988年です!
考古学以外の本をどれだけ読んでいるか、現代思想の動向をどれだけ気にしているかが、その人の研究の幅を規定するといったことを、最近強く感じています。
by 伊皿木蟻化(五十嵐彰) (2017-01-02 22:02) 

伊皿木

訂正:maculinist→masculinist 日本語訳としては「男性性」とか「男性主義」とかでしょうか?
by 伊皿木 (2017-01-03 11:49) 

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