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植木2015『植民学の記憶』 [全方位書評]

植木 哲也 2015 『植民学の記憶 -アイヌ差別と学問の責任-』緑風出版

前著『学問の暴力』を、6年前に紹介した。

「1977年4月、北海道大学経済学部ではいつもの年度と同じように新学期が始まっていた。軍艦講堂の一番教室で開講された「北海道経済史」は、経済学部四年生を対象に毎週金曜日と土曜日に開かれる講義だった。100名ほどの受講生に対して、授業を担当したのは、当時経済学部長を務めていた林善茂である。
講義に出席した学生たちの話によると、林教授は最初の講義で、「北海道経済史は日本人を主体にした開拓史であり、アイヌの歴史は切り捨てる」と語った。それだけでなく「学生たちを笑わせるための冗談や雑談」として、アイヌ民族の身体的特徴を強調し、アイヌ女性を蔑視した表現をするなど、差別的な言葉を繰り返した。
こうした発言を「暴言」と感じた学生が一人のアイヌに相談した。相談を受けたのは結城庄司。当時、アイヌ解放同盟の代表として、積極的に民族差別問題に取り組んでいた人物である。とくに研究者たちによるアイヌ差別に反対する活動を展開し、札幌医科大学で1972年に開催された日本人類学会と日本民族学会の連合大会で、出席者に公開質問状を提出し、アイヌ民族に対する研究者の意識を問いただしていた。」(12.)

こうした経緯を経て、先月の新聞報道に繋がっていく。
それでは遺骨と共に発掘された考古資料の扱いについて日本考古学協会の対応は、どうなっているのだろうか。

「1975年に札幌で開催された日本考古学協会の大会では「全国考古学闘争委員会連合」に属す若手の研究者たちが壇上を占拠し、アイヌ民族の現状を踏まえない研究に異議を唱えた。そして、1977年に北海道大学で差別講義事件が起きた。」(185.)

「林善茂は当初、自分の発言は学問的見解であるから、差別にあたらない、と主張した。林だけでなく多くの研究者たちが、同様な見解を表明し続けてきた。この見解の前半部分は、正しいといえる。学問そのものがアイヌ民族の同化消滅を推し進めてきたのである。
しかし、後半部分、つまり、差別に当たらないという見解については、同じことは当てはまらない。林の発言が差別的だったとすれば、学問そのものが差別的だったということである。」(210-211.)

4月30日には、「北海道における近現代考古学の今後」と題する研究集会が開催されるという。当然のことながら、本書で述べられている事柄が発表者を含む参加者全員の共通理解となって「近現代遺跡をフィールドに何をすべきか」が討論されることになるだろう。

「北海道大学の根幹は「開拓」にあった。「開拓」を実現するために植民学が講じられた。それはアイヌ民族を同化消滅させ、和人による北海道を実現するための学問にほかならない。
この過去をいったいどう扱うつもりなのだろうか。忘れてしまえばよいというのだろうか。
しかし、それは現在も大学がこの過去の延長線上に位置し、これからも同じ途を歩み続けることを意味する。それは北海道大学が植民地の大学であり続けることにほかならない。そのような大学が、たとえ先住民族に関する研究や教育を強化し、アイヌ民族の「文化」や海外の民族差別問題にとりくんだとしても、大学の根幹が変わらぬままでは、アイヌ民族との緊張関係はとけないだろう。
過去に向き合うことは、過去を糾弾することではない。どのような未来を築こうとするか、その決意を明確にすることである。」(221.)

問題は、大学だけでない。
2015年に「北海道は開拓者の大地だ」と記した巨大な広告が、いくつものチェックを通過して新千歳空港に掲げられてしまうという事態に凝縮されている。
いったい何人の人が、この広告を目にしながら通り過ぎて行ったことだろうか。

「日本においてそうした議論(研究倫理に関する議論:引用者挿入)の契機となったのは、1968年9月に東京と京都で開催される「第8回国際人類学・民族学会議」の前後に計画されていた北海道白老町でのエクスカーションであった。ツアーを担当する旅行会社が前年に作成した英文ガイドブックは、アイヌを孤立した伝統的慣習に生きる集団として描いていた。のちに東京大学文化人類学研究室の院生たちからなる「文化人類学コース斗争委員会」の中核を担うことになる清水昭俊は、当時同じく東大文化人類学の大学院に在籍していたアイヌ研究者の河野本道の紹介で、1968年の春先に静内での短期調査を経験していた。その帰京後、清水は河野と相談し、組織委員会北海道小委員会に批判文を送っている。(中略)
その後の日本万国博覧会への協力反対、さらには国立民族学博物館構想への反対へと連続する文化人類学界での全共闘運動について云々することは蛇足に過ぎよう。清水の論文は、日本の人類学者が人類学的調査や民族誌記述について植民地支配との関係から批判的に論じたものとしては最も先駆的な例といえるが、こうした考察を導いたものの一つがアイヌ調査の経験であった、ということだけをここでは確認しておく。」(木名瀬 高嗣 2016「「アイヌ民族綜合調査」とは何だったのか -泉 靖一の「挫折」と戦後日本の文化人類学-」『帝国を調べる -植民地フィールドワークの科学史-』坂野 徹編、勁草書房:187-189.)

隣の文化人類学における最近の記述の一部であるが、では、こちらの「日本考古学」においてはこうした研究倫理に起因する「挫折」を経験した研究者がどれほどいただろうかと自問せざるを得ない訳である。


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