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田村1994『慶陵調査紀行』 [全方位書評]

田村 實造1994『慶陵調査紀行』平凡社

「慶陵と著者(田村)との縁由をいえば六十有余年の昔にさかのぼる。1931(昭和六)年七月、日本東亜考古学会によって組織された内蒙古調査団が、チャハル省およびシリンゴール盟における考古、歴史、人類、地質、言語の各部門にわたる総合的学術調査を目的として、山西省張家口から長城をこえて内蒙古入りを敢行したとき、たまたま当時、この学会から派遣されて北平(北京)に留学中であった著者は現地から参加することになった。
慶陵は、当初この調査団の調査対象ではなかったが、田村の熱望がいれられて、一行は八月中旬、興安嶺を西から東にこえて、かつて遼代に慶陵の奉陵邑であった慶州城址にあたるバリン左翼旗管内の白塔子部落を訪れた。翌日団員の江上波夫氏(東京大学名誉教授)と田村とは、写真技師田中周治氏を伴い一人のラマ僧を案内者として、ここから西北約14㌔をへだてる興安嶺山系のワール・イン・マンハ(慶雲山)の地下にある慶陵三陵墓(東陵・中陵・西陵)の調査に赴いた。」(21.)

ここで述べられている「内蒙古調査団」とは、前々回の記事で紹介した「東亜考古学会蒙古調査班」のことを指す。

「著者らが、慶陵を総合的に調査する機会にめぐまれたのは、旧満洲国の文化工作を使命とする日満文化協会(日本の学者と満洲在住の中国学者とより成る学会)が、慶陵の高い文化的価値、とくに慶陵壁画と契丹文字の存在が欧米学界に早くから知られていたことに鑑みて、その全容を内外の学界に紹介するため、慶陵の総合的調査、ならびにその学術報告書の作成を計画したことに因る。」(25-26.)

1939年7月29日から9月9日まで、いかに苦労・苦闘しつつ隣国それも交戦中の敵国の王さまのお墓を調査したかが綴られる。
こうした熱意・情熱に対して、自国の王さまのお墓を調査しようとするそれとの落差に胸を打たれる。

「トラックがある部落のはずれの荒涼たる丘を通った時、雑草のいきれの中に背の高い木標が建っているのを見かけた。「某某騎兵隊、十八名戦死之所」として、かつての満洲事変中に散ったわが英霊の名が書きつらねてあった。その細かい文字を読みとる暇もなく、トラックは行き過ぎてしまったが、うすれかかった墨のあとが、かえって生々しく眼にうつった。現在、北満のノモン・ハンにおける日ソの風雲急な事変中であるだけに、これら英霊の冥福を、一同は車上で心から祈った。」(62-63.)

他国の領土で戦死した「英霊の冥福」は祈るが、外からやってきたその兵士たちによって命を奪われたその土地の人びとに対して祈ることはなかったのだろうか。1994年になっても。

「1945年以後、日本人研究者は、日本の「植民史」(すなわち、侵略史)を、日本人の民族的責任の大きさをはっきりさせるという目的を強固にもっておこなってきただろうか。もしそうであるならば、日本人近現代史研究者は、まず、1860年代以降に日本人がアジアで何をやってきたのかを集中的に実証的に詳細に明らかにしようとしただろう。だが、1876年および1895年以後に台湾で日本人が何をしたか、”日清戦争””日ロ戦争”時に朝鮮、中国で何をしたか、1918-1925年にシベリア、朝鮮、間東、サハリンで何をしたか……を明かにしようとする日本人の研究はあまりにもすくない。
誰が、何を、どのようにしておこなったのか、ということが明らかにされなければ、おこなったことの責任の大きさも、責任の質も、責任のなかみもわからなくなってしまう。最近の日本の政治・文化状況は、誰が何をしたのかをあいまいにし、日本のアジア侵略の責任の所在をわからなくしてしまう方向に、よりすすんでいるように思われる。」(キム チョンミ1992『中国東北部における抗日朝鮮・中国民衆史序説』:7.)
「日本帝国の植民地政策の遂行に奉仕したかつての帝国大学がいまもなお囲いこんでいる資料をおもてに出し、日本のアジア侵略の事実のひとつひとつを実証的に解明することは、戦後責任にかかわる、その大学の教師ー「専門」がなんであれーの社会的任務のひとつではないのか。」(同:495.)

今から四半世紀前(『慶陵調査紀行』が出版される2年前)になされた呼びかけである。
今月下旬に、ある意味でこうした呼びかけに答える研究集会が開催される。

「このシンポジウムでは、植民地朝鮮における古代史研究(考古学、歴史学、古蹟保護政策)のみならず、植民地期カンボジアにおけるフランスの考古学事業という前史のもつ意義、そして大陸中国における考古学活動をも参照しつつ、「植民地的状況」下で実施された学知を検討する。」(国際シンポジウム「植民地朝鮮における帝国日本の古代史研究」2016年4月22日・23日 企画代表:李 成市、ナンタ・アルノ)

1939年8月26日に「人夫のスコップの先端に当って三つの大きな破片となって、はがれ落ちた」(194.)「武人像壁画」は、現在も京都大学に「日中文化交流のかけ橋」として「隔離保存」されたままのようである。
(本「武人像壁画」については、黒尾和久2006「京大保存『慶陵武人像』に何を語らせるべきか」『古代史の広場』木村茂光先生還暦特別編、東京学芸大学歴史学研究室 を参照のこと。)


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伊皿木蟻化(五十嵐彰)

「はがれ落ちた」部分が、腰から下だけ、とか右半身だけ、ならまだしも、人物像一体分がそっくりそのまま、というのは、偶然だとしたら「ゴッドハンド級」の仕業で、実態は「はがし落とした」という方が近いのではないでしょうか。
by 伊皿木蟻化(五十嵐彰) (2016-04-09 06:42) 

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