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溝口2015「公共考古学の可能性」 [論文時評]

溝口 孝司 2015 「公共考古学の可能性」『過去を伝える、今を遺す -歴史資料、文化遺産、情報資源は誰のものか-』史学会125周年リレーシンポジウム2014 4、九州史学会・公益財団法人史学会編:170-194.

いわゆるパブリック考古学論である。
「現代的考古学実践の四類型」(図2:179.)という四象限図を始め、大枠は昨年の日本考古学協会の研究発表時に聞いた覚えがある。改めて、詳細に述べられたということである。
同書にも収められているエルサルバドルの事例(村野 正景2015「文化遺産の継承そして創造へ―参加型考古学を試みる」:84-114.)などは、差し詰め「第三象限」に属するものと思われるが、その中でも様々であることが良く分かる。
そして4つの「実践課題」が示される。

現代考古学実践課題一:「学問的成果として解明された人類史を市民に対していかに語るか」
現代考古学実践課題二:「植民地主義の様々な(正負の)遺産と、考古学的実践を通じてどのように向き合うか」
現代考古学実践課題三:「様々な位相・スケールで進行する経済格差の拡大が、ポストコロニアル状況の深化と相関しつつ導く様々な内容の社会的緊張関係・差別の問題と、考古学的実践を通じてどのように向き合うか」
現代考古学実践課題四:「流動化・断片化する生活世界のなかで問題化する「アイデンティティ問題」、存在論的セキュリティの動揺に対し、考古学的実践を通じてどのように向き合うか」

やや固い言葉が連なるが、課題二と課題三については以下のように語られる。

「また、「植民地主義の様々な(正負の)遺産と、考古学的実践を通じてどのように向き合うか」「様々な位相・スケールで進行する経済格差の拡大が、ポストコロニアル状況の深化と相関しつつ導く様々な内容の社会的緊張関係・差別の問題と、考古学的実践を通じてどのように向き合うか」を課題とする実践が「オーセンティック(真正)な考古学ではない」という認識は、「考古学とは価値中立/価値自由なものだ」、という意識と表裏一体である。しかし学問、ないしは科学的実践の「中立性」の幻想がじつは格差・差別の再生産に与するものであることは、社会科学分野・自然科学分野の垣根を超えて、学際的に広く明らかにされており、またそのことを意識しない研究実践が、ときに「疑似科学的言説」を導くことも、多くのケーススタディを通じて明らかにされている。にもかかわらず、このような認識は根強く残存している。」(187.)

本ブログにおいて繰り返し指摘してきた危惧と同じようなことが、述べられている。
「日本考古学」において「幻想」にしがみつく「認識は根強く残存している」ことが、文化財返還問題の提起を通じて裏付けられた。

本論は、ある意味で筆者なりの世界の切り分け方、世界認識の見取り図の提示である。
故に様々な立場からの様々な異論も当然のことながら有り得るだろう。そうした異論をつき合わせて、それぞれの認識を確認していく作業が何よりも求められている。

最近読んだ以下の文章もそうした「異論」の一つである。

「われわれは弁証法そのものを放棄する必要があるだろう。そして弁証法を駆動させる矛盾=対言(contradiction)ではなく、副言(vice-diction)によって、差異をとらえなければならない(江川隆男「絶対的脱領土化の思考」)。ヘーゲルの弁証法は差異を矛盾=対言として最大化するが、ライプニッツの語る副言では、差異は還元不可能な地点にまで最小化される。そこでは出来事の破片が連鎖し、特異性が炸裂するだろう。こうした副言は敵を殲滅することを目的としない。統合をもくろむ積分的な弁証法にたいして、最小化へとむかう微分的な副言の運動のなかで分離や分裂をつくりだすこと。それがわれわれの政治であり、その政治は統治そのものの解除であり、あらゆる裁きとの訣別である。」(HAPAX2016「コミューン主義とは何か?」『HAPAX』第5号:8.)

「…<公共考古学>の目的と対象を明確に定位し、目的達成のための方法と、それに媒介された対象へのアプローチを諸単元に整理し、それぞれの批判的共有を可能とするとともに、実践の結果の反省に基づき方法と対象を修正していく、という体制を確立しない限り、<公共考古学>は、生活世界のリアリティの変容への条件反射的対応として浮上する「無批判的言説」の域に留まる可能性もおおいにある。」(192・3.)

初めて目にする「無批判的言説」という言葉の意味が判りづらいが、「批判的精神の欠如した印象批評」といった意味なのだろうか。
何れにせよ、筆者からの一つの警告である。


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コメント 2

溝口孝司

五十嵐様、拙論を取り上げていただきまして、まことにありがとうございます。「無批判的言説」は、特定の含意をもった概念として、<無批判的言説>とすべきだったかと反省しております。手短かにのべますと、1) すべての言説は、その内発的・外発的要因を言説的に特定しない限り、(非言説的)所与となり、それ自体権威的言説となる運命をまぬがれないこと、2) すべての言説は、その目指すところと、それ の達成のための方法論と、その目指すところの有効さ(例:再大多数の最大幸福への貢献)の(理論的)裏付けを自覚的に与えられない限り、上記と同様な運命をたどること、この二つが主要な含意です。本当は十分に展開しなければならないのですが、最近多忙でそのような時間がまったく確保できない状況でありまして、あえて3時の休憩時間を利用してこのような不十分なリプライをさせていただきました。ご容赦ください。溝口孝司
by 溝口孝司 (2016-02-12 15:39) 

伊皿木蟻化(五十嵐彰)

現在、回線の繋がりにくい場所におり、応答が遅くなりました。「第2考古学的言説」はまかり間違っても「権威的
」となることはないと思いますが、それでも「批判」と「非難」を間違われる可能性は大いにあるわけで、問題のより良い解決に向けて生産的な議論が喚起出来ればと希望しています。
by 伊皿木蟻化(五十嵐彰) (2016-02-13 08:36) 

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