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佐藤2016「死者は事物に宿れり」 [論文時評]

佐藤 啓介2016「死者は事物に宿れり -考古学的想像力と現代思想の物質的転回-」『現代思想』第44巻 第1号:232-242.

1. 「考古学的想像力と現代思想」前史
2. アクターなきネットワーク -痕跡と物質と動作の連鎖-
3. ネットワークに宿る死者たち -死者の記憶としての物質世界-

「ポスト現代思想」と題された特集号の「ニュー・リアリズム」「ニュー・マテリアリズム」「非人間的なもの」「フェミニズム」「エステティクス」と題された主題群に続く「考古学」という見出しに収められた論考である。
青土社の『現代思想』に考古学を主題とする論文が登場するのは、本論中でも言及があるように1990年の特集「考古学の新しい流れ」以来だろうか。

「さて、めまぐるしくうつりゆく、現代思想の(こう呼んでよければ)「物質的」転回を考えたとき、同じく物質の学を自認しているはずなのに、その転向にどこか「乗り遅れ」ている学問分野があるように思われる(そこに乗らなければいけないわけでもないのだが)。それが「考古学」である。…
 もともと考古学は「過去人類の物質的遺物を研究する学」(濱田1922,11頁)として誕生したはずだが、それらの議論の多くは、物質的遺物に関する主題以外のところでの発展によるものであり、どこか、自身がもっとも本領を発揮してよいはずの物質概念には触れないままにしているかのような印象を受ける。…
だが、筆者のみるかぎり、これまで積み上げられつづけてきた考古学的な議論のなかには、現代思想の物質的な転回にも匹敵するような、物質、とりわけ「物質的痕跡」に関する数々の興味深い視点が埋もれている。…
本論では、個々の考古学的資料の解釈をとりあげるのではなく、考古学が物質を考える際の特有の捉え方を、いささか強調して取りだしたうえで、それを「考古学的想像力」として規定し、その想像力から眺めた世界の姿がいかなるものかを考えていきたいと思う。」(232-233.)

これまで「考古学的構想力」として語られてきた事柄が(佐藤2004佐藤2009)、今回は「考古学的想像力」として(バージョン・アップして?)語られている。但し236頁上段11行目では、旧バージョンの「考古学的構想力」が取り残されているような。個人的には旧バージョンに親しみを覚えているのだが…

「石器研究者の五十嵐彰」(236.)
自ら「石器研究者」を名乗ったことはないので、そうした自覚はなかったのだが、外から見れば確かにそう見えるのだろう。まぁ「第2考古学者」では『現代思想』の読者には何のことやらチンプンカンプンだろうし、それは「トラセオロジスト」にしても同じであろう。

そのトラセオロジストとしては、第2節の事物論が関心領域の重なる箇所である。
かつて「痕跡連鎖構造」(五十嵐2004)としたものが、考古哲学的に「アクターなき物質同士のネットワーク」(237.)とされている。第1の縦糸は時系列の痕跡連鎖、第2の横糸が作用-反作用の物質連鎖で、そこに絡む第3の糸が「動作連鎖」とされている。世に云う「動作連鎖」(シェーン・オペラトワール)を理解するには、第1の縦糸と第2の横糸の理解が欠かせない所以である。第3の糸は「すでに「抜糸」されている」(237.)のだから、なおさらといえよう。

第3節の死者論については、すでにコメントを述べる資格を有していない。
ただ「記憶の外部化」という考え方に触発されて想起するのは、現在作業中の事例、緑川東の敷石遺構SV1の4本の大形石棒についてである。これらを遺した人びとは、既に遥か遠くの彼方に去ってしまったが、彼ら/彼女らの遺したメッセージ、もう少し正確に言えば、ああした<場>にあのような<もの>を遺すことで伝えたかったことは、確かに私の心に届いた、と言えば言い過ぎだろうか。

「私たちは物質としての事物や大地に日々接するなかで、死者たちの記憶と知らず知らずのうちに交流している、あるいは、死者たちの死にぞこないの記憶を生きている。物質と痕跡に死者の記憶が充満しているのが、この世界なのだ。」(240.)

 考古学は、「何とか地域の何とか土器に関する一考察」だけではない!ということを強く感じさせてくれる論考である。


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コメント 9

さとう

拙論へのコメントをいただき、ありがとうございます。
実際のところ、論文全3章のうち、第2章の半分くらいはかつての論文のリライトなので、成長があまりない論文なのですが、昨今の哲学・人類学の展開と対比させることで、考古学的痕跡論の現代的位置づけ・意義などを、よりはっきりさせることができたのではないかと思っております。

前々から、「人文学における考古学の可能性」に注目していたので、『現代思想』という場で、その可能性の一端を書けたのは、ありがたい機会だったと感じます。もっとも、考古学者の方々からしてみれば、「なんか適当なこと書きやがって」と思われそうですが…。
by さとう (2016-01-08 17:33) 

伊皿木蟻化(五十嵐彰)

コメント有難うございます。私も含めて普段は考古学の専門誌や同人誌しか読まない考古学者にとって、メイヤスーやら新しい唯物論はよく理解できないでしょうが、さとうさんの文章によって、自分が関わっている考古学という学問が現代思想という大きな潮流の中に位置づけられて「自分の知らないことがこんなにあるんだ」「どうやら考古学という学問は思ったよりすごいんだ」と感じるだけでも、大変意義ある一文&特集だったと思います。自らの内に秘めている「考古学的想像力」という可能性に、少しでも多くの考古学関係者が気付き育てることができればと希望して止みません。
by 伊皿木蟻化(五十嵐彰) (2016-01-09 09:35) 

鬼の城

考古学的構想力とはその「方法論」が定義され、そして「合法論」が考古学研究一般に浸透しなければ、それは単なる「妄想」に過ぎないと思います。

新しい唯物論も基本は19世紀の哲学的背景を批判的に摂取、継承をすることでしょう。その内容も論者により様々です。また、事物の「コト・モノ」の解釈に唯物論をその方法論的手法で紐解くことも必要ですが、結果的に哲学の不毛があるがゆえに解釈主義になると思います。
by 鬼の城 (2016-01-23 11:46) 

鬼の城

間違いの訂正

一行目。「合法論」→「方法論」です。
by 鬼の城 (2016-01-23 11:49) 

伊皿木蟻化(五十嵐彰)

「一般に浸透するか、しないか」で自らの評価を定めるのは、現実追随主義になりはしないでしょうか。
by 伊皿木蟻化(五十嵐彰) (2016-01-23 20:35) 

鬼の城

>現実追随主義になりはしないでしょうか

「方法論がない」と言っているのだから、現実否定しているわけで、それを持って「現実追従主義」と言うのはおかしい。しかし、仮に「方法論があり、一定の研究者に浸透した」としても、常に批判的精神を持ちその「方法論」の殻から抜け出す努力は必要だから、そこにおいても「現実追従主義」と言うカテゴリーは無化される、とお思います。
by 鬼の城 (2016-01-24 08:35) 

伊皿木蟻化(五十嵐彰)

「現実追随主義」という言葉で私が危惧しているのは、一般に浸透すれば本物で、浸透しなければ妄想であるという鬼の城さんの評価基準です。
by 伊皿木蟻化(五十嵐彰) (2016-01-24 08:58) 

鬼の城

>一般に浸透すれば本物で、浸透しなければ妄想であるという鬼の城さんの評価基準です。

考古学の方法論が一般に浸透すること=本物、そうでなければ=妄想、と言うわけではないが、そうとも読み取れますね。しかし私は、原則的に現状で「考古学の方法論はない」それ故にまず、その方法論の確立のための議論が必要だと言っているのです。また、その前提としての現状分析が必要であり、それなしには「一般化はできない」と考えています。

そして、五十嵐さんの言う私の「評価基準」なるものは、それが一定の概念性を研究者間で獲得してからのことだとことだ思います。
by 鬼の城 (2016-01-24 19:01) 

伊皿木蟻化(五十嵐彰)

おっしゃられていることが、私にはよく理解できません。
by 伊皿木蟻化(五十嵐彰) (2016-01-24 21:07) 

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