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水野1948『東亞考古學の發逹』 [全方位書評]

水野 清一 1948 『東亞考古學の發逹』古文化叢刊7、大八洲出版株式會社

「わが國の學者は明治以来敗戰のその日まで、終始東亞考古學のために力をつくしてきた。もちろん學者も、そのときどきの政情からまつたく超然たることはできない。そのためおほいに困難したときもあり、また反對に利便をうけたときもあつた。けれども、それらはしよせん、べつのことがらである。學術そのものとは、なんのかゝはりもない。わが國の學者たちは、概してさういふものからはなれ、純乎として學術の要請するところにしたがひ、まじめな努力をつゞけ、また公正な行動をとつてゐたやうにおもふ。たとへば、その古蹟を保存し、遺物の散佚をふせぐについても、つねに眞劍な努力がはらはれたことは、だれの眼にもあきらかなところである。いま四十年の足迹をかへりみて、先人のため、またわれわれみづからのためにひそかによろこぶものはこれである。學術こそは、いつのときにも明朗であり、公明でありうる。學術に國境がないといふ眞の意味もわかるやうにおもふ。」(157-158.)
 
自らの植民地考古学を正当化するために、二つのことが述べられている。
一つは学問と政治は分離できるという信念であり、今一つは自分たちは「まじめな努力」「眞劍な努力」をしたという自負である。
しかし実際に「困難した」り「利便をうけた」にも関わらず、「しょせん、べつのことがら」とは、いったいどういうことなのだろうか? 「そうありたい」という希望的な感慨に過ぎないと考えざるを得ない。このようなことは、今や時代錯誤的な研究者(例えば日本考古学協会理事会)でなければ公言出来ない妄言である。
また「まじめ」に調査したなどということはことさら表明するような事ではなく、そんな当たり前の事をなぜ強調しなければならないのか、その深層心理(苦しい胸中)すら忖度せざるを得ない。
「學術に國境がない」という立場と、考古学には植民地で調査がなされた「植民地考古学」とそうではない考古学があるという二つの立場が鋭く対立している。

「もとよりわれわれの眼前には國境がありすぎる。あらゆる生活の分野において國家的なエゴが露骨である。學術においても無制限に解放はされてゐない。この四十年間にたどつてきた東亞考古學のあゆみをみただけでもさうゆふやうなものは、學術にとつてなんでもないものだといふ氣がする。いつかはふつとんでなくなるものゝやうにおもはれる。さういふ目前の欲求をこえて、深い眞底からする學術の要請が、おのづからさういつた垣ねを破壊しさり、あたらしい國際協力をもたらしてくれるやうにおもふ。學術といふものは本来國境のないものである。」(158-159.)
 
「國家的なエゴ」に翻弄された筆者の素直な感慨なのであろう。
しかしナショナリズムの克服や新たな国際協力を語るためには、まず自らの「東亞考古學」が植民地支配の一翼を担っていた事に対する真摯な反省が欠かせないのではないか。
 「東亞考古學の發逹」を語るのに、なぜ「邦人の調査」「欧米人の調査」「中國人の調査」の三本立て構成なのか、朝鮮半島における考古学について語る際にその土地出身の考古学者が語られない不自然さにどれだけ自覚的であるか、無意識の植民者意識、植民地支配を正当化する志向を問い質していかなければならない。
 
「たゞ考古學といふ學問は、いつも地域にむすびつき、國土に根をおろしてゐる。それだけに一方では地域をこえ、國土をこえた綜合がつよく要求される。このところに矛盾がある。そして國は國どうし、地方は地方どうし對立する。いがみあひをする。これはもちろん感情的なものである。理窟はすこしもたゝないのである。それに大きな財物の慾までくはゝつて、あやしげな妖氣さへ發散する。かういふ意味で考古學はもつとも學問らしからぬ學問であるといはれるかも知れない。まことにさうである。考古學のなやみはいつもこゝにある。ギリシア考古學、エヂプト考古學、西南アジア考古學乃至インド考古學等々。東亞考古學も、もちろんその例にもれない。」(159.)
 
ここでは自らを西洋列強による植民地考古学に列するものと正しく位置づけている。
現在の「文化財返還問題」の起因となる自らの「略奪欲」すら記述されている。
ところが、そうした事柄は全て「うわべ」という一言であっさりと打ち消されてしまう。
 
「しかし、そういふうはべのことにとらはれてはならない。感情的にはふかいものがあつても、理論的には至極簡單である。容易に整序し、學術本然のすがたにもどすことができるとおもふ。かずある學問のうちでも、考古學はとくにさういふ鎖國的な面をもつのであるが、それとは別に考古學こそは實に國際的な面がつよいのである。といふのは考古學の遺物、遺蹟は、もとより過去の人類がのこした文化所産であつて、それが孤立して存在することはまづないのである。つねに世界文化の交流のうへに立つてゐる。またかりに、さうでないばあひにしても、文字をあつかはない考古學は、ちがつた國々の所産をたがひに比較してその意味を理解するといふことが最良無二の方法になつてゐるのである。國際的にものをみてはじめてたゞしい解釋ができる學問である。だから國際的協力がなければ、この學問の躍進はありえないのである。いな、これがなければ、ほんたうのことはわかりえない學問であるといへる。」(159-160.)

前段で「理屈はすこしもたゝない」と述べた舌の根も乾かないうちに、今度は「理論的には至極簡單である」というのだから、もう無茶苦茶である。
過去の負の遺産である「文化財返還問題」について前向きに取り組む姿勢を示さない限り、本当の意味での「世界文化の交流」も「國際的協力」も成立しないだろう。ということは「文化財返還問題」に消極的な研究者たちには、「ほんたうのことはわかりえない」ということである。
 
「この四十年間における東亞考古學のすばらしい進歩、その進歩に貢獻したおほくの國々の、おほぜいのひとたちを回想するとき、おのづから將來における緊密な國際提携といふことが切望される。學術そのものゝ性質として個々別々の調査研究も、月日のたつにつれおのづから緊密に綜合されるものだといふことは、すでに體驗したところである。けれども、將來のことをかんがへるならば、過去のごとくてんでばらばらに放任しておいてよいであらうか。いな、むしろすゝんで學者どうしたがひによりあひ、胸襟をひらいて談合し、その負擔能力に應じて計畫的な分擔協力をしなければならないとおもふ。そのためには東亞考古學者の國際的學會が必要である。そして定期に會合をもち、相互に交流をたもつことが是非とも要請される。いまは世界の變動期、改造期である。それだけにかへつて、むつかしいこともなしやすい時代である。一方に戰争を破棄した國家さへ生れようとしてゐるのだ、國境のない世界への構想が、この學術を通じて具體化できないはずはないであらう。」(161-162.)
 
こうした執拗とも思われる「国際協調主義」の主張は、何を意味しているのだろうか?
もちろん自らの手痛い経験からもたらされたという一面もあるに違いない。
しかし何よりもその裏にあるのは、敗戦によって喪失したフィールドへの一刻も早い復帰、そのための布石としての『東亞考古學の發達』だったのではないか?
踏みつけられた者の痛みに思い至らない踏みつけた者のポストコロニアルな姿勢である。



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