SSブログ

殿平2013『遺骨』 [全方位書評]

殿平 善彦 2013 『遺骨 -語りかける命の痕跡-』かもがわ出版

ストレートな書名である。
著者を紹介するのは、2004年の『若者たちの東アジア宣言』、2006年の「土の中からの告発」『季刊戦争責任研究』に続く3度目である。

「死者は身近な人びとによって惜しまれ、その人と家族などの宗教あるいは心情によって追悼され、悲しまれ、その土地の文化によって葬送され、遺体あるいは遺骨が可能な限り心休まると思われる場所に埋葬あるいは安置される。いずれ忘れ去られるかもしれないにしても、その人を覚えている人たちによって懐かしがられ、思い出される。それらはすべて、その人の死であって、その人自身の生死の完結への歩みである。それらが遮断されることがあると、それはまさしく非業の死であり、プロセスとしての死は完了できない。
私たちは過去に、さまざまな死者を哀悼し、見送ってきた。それと同時にどれほど多くの死を無視し、放擲し、忘却してきたことだろうか。近代を振り返っても、無数の追悼されざる死があることに思いを致さざるを得ない。死を差別し、無視し、放擲してきたのは、もっぱら生者の側であり、近代がもたらした国民国家と敵国主義が大量の死者を非業の死へと追いやってきた。日本は明治期から太平洋戦争終結までの80年間にアジアとの戦争を繰り返し、植民地主義とレイシズムによって死者の数を増やし続けてきた。(中略)
死者はすでに生を終えているが、生者と無縁でいるのではない。私たち生者は死者に声を届けることはできないが、死者の声を聞くことはできる。生者と死者は重なっており、耳を傾けさえすれば、無数の死者の声が生者に届いていることに気づかされる。
過去の出来事と素直に向き合い、生者の周りに残された死者の痕跡に気づき、耳を澄ませば良い。無数の命が呟く歴史のかなたからのこだまが聞こえてくる。死者の声を聞くことができるなら、生者はもう少し思慮深くなり、冷静になることができるのではないか。」(15-18.)

同じようなことが、戦時期に日本にもたらされた大陸・半島由来の文化財に言えるだろう。
無視し、放擲し、忘却された「ものたち」。
もちろんある「もの」は、展示されて、照明をあびて、鑑賞されてはいる。
しかしそれは「ものごと」の半面であり、その「もの」がどのようにして、今ある場所にもたらされたのか、その来歴・由来については、「無視し、放擲し、忘却され」ている。
私たちは、そうした「ものたち」の声を改めて聴きとらなければならないのではないか。
日本各地の博物館や美術館、大学の収蔵庫の中から「ものたち」の「つぶやくこだまが聞こえてくる」。

「1983年7月10日、4回目の発掘のときは、高校生の参加が目立った。良く晴れた気持ちのいい日曜日だった。深川西高等学校の演劇部の生徒たちが多かった。大半が女生徒たちである。この年、演劇部がタコ部屋労働の犠牲をテーマにした創作劇の制作をねらっていたため、顧問の教師が遺骨発掘を体験させたいと思い、生徒を引率して発掘に参加したのだ。友人たちがこぞって参加したという楽しさも手伝ってか、彼女たちははじめから賑やかであり、半ばピクニック気分だった。
気温も上がり、汗をかきながらの発掘になった。笹薮を切り裂いて発掘が進む。やがて、粘土質の土の中から遺骨が発掘される。黒々とした頭蓋骨が木の根や土をかぶって、穴から地上へと導き出される。それまではがやがやと楽しげに話しながらスコップを握っていた生徒たちが、急に沈黙した。女生徒は気味が悪いといったふうに、発掘された遺骨の傍から離れようとする。そこに居合わせた私は、水の入ったバケツを見つけ「君たち、この遺骨を洗ってください」と声をかけた。一人の生徒が驚いたようにいった。「えっ、私がですか」「そうです。丁寧に洗ってあげてください」
私はしり込みしている女生徒の前にバケツを置いた。女生徒たちは顔をしかめて、汚いものに無理やり触るようにして、遺骨を手にした。無理をさせたかと思ったが、高校生のピクニック気分の気楽さが気になっていたので、つい押し付けてしまった。そこまで見届けて私はその場を離れた。
この日発掘された遺骨は二体だった。遺骨は棺に納められ、光顕寺の前庭で荼毘に付された。
遺骨が焼ける間、参加者は本堂に入り、車座になって、順番にその日の感想を述べ合う集まりをもった。司会役の私は、無理やり遺骨を洗わせてしまった女子高生たちに発言の順番が回るのを気にしていた。あのとき、彼女たちは明らかに嫌そうだった。無理やり洗わされたことを怒り、二度と来ないというかもしれない。しかし車座の順番にしゃべっているのだから、発言を飛ばすわけにもいかない。
彼女たちの番になった。渡されたマイクを握った一人の女生徒が発言した。
「私、今日、発掘現場でお骨を洗いなさいといわれました。そのときは本当にびっくりしました。お骨なんて触ったことありません。おじいちゃんが死んだときだって、気持ち悪くてお骨を拾いませんでした……。でも、今日、お骨を拾いながら思いました。だんだんお骨がかわいくなってきたのです。地上に出してあげてよかったなと思えるようになりました。もう二度とこんなことがないようにと思いました。また掘り起こしがあったら、必ず参加します」
遺骨と出会い、遺骨に触れて、その冷たさが犠牲の悲しみへの共感となって彼女の想像力を膨らませた。目の前の黒々とした髑髏に付いた赤土を水で洗い落す経験は、おそらく彼女の人生を通して忘れることのできないものになっただろう。
その遺骸に宿っていた命とはどんな若者の命なのか。朝鮮人なのか、日本人なのか。病死なのか、事故死なのか、はたまた虐待死だったのか。「埋火葬認許證」のなかの誰なのだろうか。ともかくも、そのとき彼女の手のひらには、犠牲になった命の痕跡が載っていた。歴史は科学であり、史料に基づいて記述されなくてはならない。しかし、歴史に参画するのは残された史料を調査し、その分析に終わるものではない。まして、その暗記をや。彼女が経験した心の震えが根底にあってこそ、科学の冷静な目が生きる。彼女は発掘に参加し、遺骨に触れて、遺骨の無言の伝言を聞き、図らずも遺骨の歴史に、したがって日本と朝鮮半島の現代史に参加することになったのだった。」(141-143.)

ここには、戦時期の日本人考古学者の行動について「是とも非ともしない」という判断停止とは、およそ次元の異なる精神の在り様が示されている。

「朝鮮人強制連行犠牲者の遺骨は、戦後長く遺族にその存在を連絡されることなく、寺院の納骨堂の片隅や墓地や山林の土中深く埋められ続けた。
なぜ、そのような事態が続いてきたのだろうか。その政治的要因は戦後のアメリカによる占領政策と東西冷戦、戦後日本の保守政治の動向に言及しなければならない。しかし、日本政府と責任ある企業の無責任を説明しても、埋葬された遺骨が近くの山林の土中にあることを知りながら、日々の生活にいそしんできた私たち市民の沈黙を説明することにはならない。別の視点から考えるなら、アジアの人びとへの謝罪と補償の必要性を自覚する眼差しを欠いた日本政治のもとで、同じくその自覚をもつことなく戦後を過ごしてきた私たち多くの日本人がいたということである。」(171.)

遺骨と遺品あるいは人骨と文化財あるいは「ホネ」と「モノ」の違いそして共通点について考えた。

一つは、共に墓地(墳墓)から掘り出されるということ。強制連行犠牲者のように通常の埋葬形態を採らない場合には、本書で繰り返し述べられているように、その死に責任がある国や会社組織が遺族に遺骨を届ける責務が生じる。そこには放置することが許されないというある種の法的拘束力すら発生する。同様に文化財もその取得に正当性が認められない場合、例えば盗掘や抑圧的な状況下における強奪のような場合には原産地へ返還すべき責務が生じる。
厚生労働省は南の果ての島々まで日本兵の遺骨収集作業を行なっているが、自らの政策に起因して生じた朝鮮人強制連行の犠牲者の遺骨についても同じような努力をなすべきであろう。
共に近現代という時代状況における植民地的構造が引き起こした負の遺産である。

一方で、遺骨はどこまでも個別性、ある特定の個人という特定性が付きまとう。当然のことである。遺骨という一般性はなく、あくまでも個々の個人名を纏う。それに対して、文化財は、<もの>自体に個人名が銘記されている場合以外は、個人との結び付きは明確でない。また遺骨は故人と所縁のある人びと(遺族)にとっては特別の思いを抱かせるが、他の人びとにとっては単なる「人骨」と見做されることも多いだろう。それに対して文化財はその<もの>自体にある価値が纏わり付く。それは美術的な価値であり、稀少性ゆえの経済的な価値であったりする。もっともある特殊な場合、すなわち故人の「遺品」といった場合には「遺骨」に準じた様相を呈するだろう。
しかし一般的には「もの」特に文化財や美術品の場合には、それらを所有することで、ある場合には所有者の欲望を満たし、また国家としての「優越性を示す」ことになる。

ここで問題としている「遺骨」と「文化財」で共通しているのは、共に近現代の植民地状況下という歪んだ構図の中で、当事者の合意形成を得ることなく、力づくで、無理矢理に元あった場所から引き離されて見知らぬ土地に運ばれ、その後もその修復が十分になされることなく、現在に至っているという点である。その修復、すなわち元にあった場所、あるべき場所、待ち続けている人のもとに返すのは、その状況を形作った人びとだけでなく、その国家や組織に属する人びと、継続する社会に暮らす人びと、特に加害責任を負う人びとの責務である。

強制連行犠牲者の遺骨、戦時期大陸・半島由来の文化財、そして国内特に沖縄に集中する米軍基地、私たちが向き合わなくてはならない70年にわたって積み残されてきた問題である。


nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(1) 
共通テーマ:学問

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 1