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網野1999『古文書返却の旅』 [全方位書評]

網野 善彦 1999 『古文書返却の旅 -戦後史学史の一齣- 』中公新書1503

「事前に連絡しておいたので、待っていて下さった資料館研究員の津江篤郎氏に迎えられた私たちは、机の上に風呂敷包みを置き、挨拶をかわしたのち、私がクドクドとここにいたった事情を説明しはじめた。背が高く、がっしりした体格の津江氏は、いかめしい顔で腕を組みながら、無言のまま、私の説明を聞いておられた。あるいはきびしい叱責をうけるのではないかと覚悟していた私の話が終わると、津江氏はやおら腕組をとき、膝を大きく叩いて「網野さん、これは美挙です。快挙です。今まで文書を持っていって返しにこられたのはあなたがはじめてです」といわれたのである。
思いもかけぬ賞賛の言葉に、心底、私はホッとした。そして文書を返却しないままにすることの恐ろしさをまたあらためて痛感した。」(30.)

大学の学部時代に古文書学概論といった授業を聞いたぐらいで、トンと縁が薄い領域が意外なほど考古学の世界と似通っていることを確認した。
地方に収蔵されている古文書を収集するために地方を訪ね歩くフィールド調査、見出した古文書を借り受け、裏打ちしながらの地道な補修作業、写真撮影、筆写、そして目録カードの作成を経て報告書の刊行に至る。
これは、<遺跡>の発掘というフィールド調査を経て、遺物洗い・注記作業・属性表作成、接合、実測・写真撮影といった地道な作業を経て「考古誌」刊行に至るプロセスとほぼパラレルである。

「髪に白いものが目立ったとはいえ、荒野氏はまことにお元気であり、同じ白浜の中川豊幸氏もお変わりなく、私のことを覚えていて下さり、やはり文書を寄贈していただいた。ただ、蔵川の山口家では代が替わっておられたが、文書は同様に寄贈され、さらに新宮の藤崎源衛家でもご当主は御病気で休んでおられたにもかかわらず、病床で私を迎えて下さり、文書が無事だったことを大変に喜ばれて、研究所に寄託する意向を示して下さった。このほか鹿島郡大同村津賀(現鹿嶋市)の須賀田宗右衛門家にもうかがったが、やはりお元気で、私が長年の借用し放し、不義理に対するきびしい叱責を覚悟していたにもかかわらず、どのお宅でもむしろ久々の訪問を心から喜ばれ、ほとんどの方々が古文書を研究所に寄贈、寄託して下さった。
もちろんこれらの方々も、私が返却に行くまでは先の塙氏のように、不誠実を心の底から憤っておられたに相違ない。しかし文書の返却に来たことを知られると、怒りは逆に、信頼に変わっていったように思われた。まだはじまったばかりであったが、この経験を通して私は、この仕事をどうしてもやりとげなくてはならないという決心をさらに固めた。文書の借り放しによって生じた研究所に対する不信感を解消することは、研究所を引き取ってくれた神奈川大学に対する、月島分室に関わったものの義務であることを、あらためて思い知らされたのである。」(45-46.)

古文書所有者の古文書研究組織に対する対応の仕方については、期限を設けた「借用」から、ほぼ半永久的な「寄託」そして所有権放棄の「寄贈」に至るまで何通りかあろうが、こうした意識を考古学関係者はどれほど有しているだろうか?

もちろん古文書と考古資料とでは、基本的な性格が異なる部分も多いだろう。古文書では多くの場合にその所有者も明確であり、それが故に借り出す場合には「借用書」なるものが必要となる。それに対して考古資料は、埋蔵物という性格上、無所有物であり「拾得物」扱いされるが故に、発掘調査した側は出土資料を「借用」しているという意識が希薄なのではないだろうか。しかし、それで本当にいいのだろうか?

<遺跡>には必ずその土地所有者が存在し、仮にその土地所有者と出土資料の関係者が縁も所縁もなかったとしても、その土地に暮らしている人々にとっては、自らが暮らすその土地から出土したという共同体としての縁があり、その土地から出土したということをもって出土品は縁も所縁もない調査組織が所有し続けるよりも、その出土地に暮らす人びとに「返却」すべき性格を有しているはずである。

ところが、各大学の考古学研究室の収蔵庫には、各地から出土した考古資料が報告書が刊行された後も、その出土地の人びとの合意を得ることなく収蔵され続けているという事例が余りにも多い。 
そもそもその地方の出土資料をその地方の人びとから「借用」しているという意識すら希薄で、実は自分たちが掘った出土資料は掘った本人、調査組織が所有するのは当たり前で、当然所有権も自らが有していると思い込んでいる場合が多いのではないか。

戦時期に植民地宗主国として植民地・占領地から持ち出した発掘資料はもとより国内における発掘資料についても古文書と同様に、「返却の旅」がなされる必要があるのではないか。
それは、資料の「借用」に直接関わったものの責任に留まらず、その組織の「不誠実」を償うためであり、発掘地の人々の「根深い不信感を解消する」ためであり、考古学という学問に従事するものの「義務」ではないのか。

私が院生時代に関わった山形県における出土資料も未だに地元に返却されることなく、研究室地下の収蔵庫に眠っている。関わったものとして、いつの日にか地元に「返却」することが、私の幾つかある義務の一つである。

「さあ議論を始めよう」(『考古学研究』2014、61-3:1-5.)、結構である。
しかし何を議論するのかを議論する必要があるのではないか?


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