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2015:寒中見舞 [雑]

「さて、厳密に解すると、一つの道具だけが孤立して存在していることは決してなく、一つの道具は常にある道具全体に属しているのである。例えば油絵具は画筆、パレット、ペインティングオイル、油壺、画布、画架などのももろもろの道具全体の中で初めて油絵具として役立つことができるのである。そして道具とは、「何々するための(手段となる)あるもの」なのであるが、この「何々するため」Unzuという「手段性」には、「(何々するために)有用である」、「(何々するために)寄与する」、「(何々するために)役立つ」、「(何々するために)手ごろである」といったさまざまな在り方が属していて、これらのさまざまな手段性の在り方が「道具全体性」Zengganzheitを構成しているのである。
この「何々するため」という道具の存在性格を具体的に見ると、たとえば、ハンマーは釘を打つため、釘は板を固定するため、板は舟を作るため、……というように、Aという道具は他のBという道具へと差し向けられることによって、そのBという道具を指し示し、その指示されたBという道具もまた別のCという道具へと差し向けられることによって、そのCという道具を指し示すといった形で順次に他の道具を指示してゆくという一種の波及現象が認められる。このように、「何々をするため」という構造のうちにはあるものの他のあるものへの「指示」Verweisungが含まれており、こうした「指示」の連関もまた道具全体性をともに構成しているのである。
ある道具は道具全体性への帰属性にもとづいて存在しているがゆえに、個々の道具に先立ってすでにある一つの道具全体性が出会われているのでなければ、いかなる道具といえども、それが何をするためのものであるのかを明確に捉えることはできないのである。たとえば野球をまったく知らない人にとっては、ボールやバットが何をするための道具であるか正確にはわからないであろう。」(岡本 宏正2011「現存在の予備的な基礎的分析(その1)」『ハイデガー「存在と時間」入門』渡邊二郎編、講談社学術文庫:95-97.)

「石棒」と呼ばれている「道具」がどのように用いられたのか、その手段性なるものが分からないはずである。
こうした道具全体性を、かつて「使用-製作連鎖構造」(五十嵐2003「「使用」の位相」)あるいは「痕跡連鎖構造」(五十嵐2004「痕跡連鎖構造」)と称したことがあった。

「個別の遺構・遺物研究に自足することなく、様々な「もの」が「もの」を作り使う行為主体を介して連鎖している構造を明らかにする契機として、痕跡連鎖構造という考え方を提示したい。」(五十嵐2004「痕跡連鎖構造」:286.)

10年余りが経過した。
光陰矢のごとし。

「アイヌ語もろくにわからぬ連中がマスコミの波に乗ってアイヌ研究を随筆化し、そのでたらめさにたえかねて私などがたまに真実をあばくと、やれ偏狭だの思い上がっているのだと袋だたきの目にあうのが現状だ。
学問の世界ですら正直者はバカをみるのが現状であってみれば、名誉ある孤立を守って地味な仕事をこつこつと続けてゆくのがささやかながら僕の愛国心の発露だと思っている。」(知里 真志保1960「『愛国心』私はこう思う」『毎日新聞』1960年11月18日、『和人は舟を食う』所収:7.)


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