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富山遺跡(曲解・変遷) [捏造問題]

「2002年の10月23日、筆者はパリの古人類研究所にド・リュムレイ教授を訪ね、久闊を謝すると共に日本旧石器研究についての意見を交換する機会をもつことができた(図6 ド・リュムレイ教授と芹沢)。旧石器時代遺跡の年代決定について、私の場合はまずその遺跡を基盤まで掘り下げて層序を確認し、地質学上の位置を専門家に決定してもらい、最後に物理学的方法による年代測定を依頼する。たとえば星野遺跡の場合などは、36年かかったことになるという筆者自身の経緯を聞いていただいたあとで、次のような質問をしたのであった。それは、最近、日本の若い研究者の中には、旧石器時代の遺跡の年代はタイポロジーだけで決定できるという考えをもつ者がいる。たとえば、山形県の富山遺跡の場合には、発見された石器の形がフランスのテラ・アマタ遺跡の石器と共通する特色をもっているから、富山遺跡の年代はテラ・アマタと同じく約30万年前と考えられると主張している。
しかしながら富山遺跡の石器出土層は層位による年代測定が困難であるといわれており、年代測定によってもまだ好結果は得られていない。それでもなお、石器のタイポロジーから年代を決定するという考え方についてどう思われるか、という筆者の質問に対して、しばらく教授は考えておられたが、テラ・アマタと日本の遺跡とは今でこそ航空機に乗れば12時間で行けるが、旧石器時代の人間がテラ・アマタから日本まで歩いて行ける筈はないし、中間地帯のことを考えても、そのような年代決定の方法は全くありえないことだ、と強い調子で答えられた。そしてそのあと、そのようなことを言っているのは一体誰か、と訊ねられた。個人名を出すつもりはなかったので返事をためらっていると、繰り返して3度聞かれたので、それは竹岡俊樹という人物だと答えた。すると教授は「その人の論文は読んだことがあります、しかしただそれだけのことです。」と首を左右に振りながら言われたのであった。」(芹沢 長介2003「前期旧石器研究40年」『考古学ジャーナル』第503号:13.)

特に難しい日本語ではない。読んだままである。日本の石器研究者がフランスの石器研究者に日本の旧石器研究の現状について質問し、それに対して答えがあったということだけである。
しかし、そのように読み取らない人もいるのである。

「私は、富山遺跡はテラ・アマタ遺跡と同じアシュール文化(原人の文化)に属すると述べたので、原人がフランスから日本にやってきたとは言っていない。意図的な曲解である。ド・リュムレイも困ったことだろう。」(竹岡 俊樹2014『考古学崩壊 -前期旧石器捏造事件の深層-』勉誠出版:229.)

「原人がフランスから日本にやってきた」などと言っている人はいない。
芹沢氏は、「旧石器時代の人間がテラ・アマタから日本まで歩いて行ける筈はない」というド・リュムレイ氏の言葉を紹介しているだけである。
「曲解」とは「相手の言動をねじ曲げて解釈すること」をいうが、この場合にいったい誰が誰の言動をどのようにねじ曲げて解釈しているのだろうか。
これでは、ド・リュムレイ氏だけでなく、さぞかし芹沢氏も困るだろう。

その芹沢氏も山形県の富山遺跡には、浅からぬ因縁がある。
「たまたま、東北大学助教授芹沢長介先生からご丁重な書面をもって本校の資料を観覧させて欲しい旨の通知があり、重ねて中央高校教諭加藤稔先生を通して具体的日程の交渉があった。学校の都合もあり、6月22日の日曜が選ばれた。時あたかも、相沢忠洋氏著の「岩宿の発見」が読書感想文の課題図書として図書館を賑わしていた時である。相沢青年にとっても芹沢先生との出合いが重要な発見の契機となった。本校においてもいつかは先生にお会い出来る時期もあろうと期待していた。ところが、この期待が意外に早くやって来た。予定の期日に、待望の先生が学生5名と共に来校された。
富山遺跡の珪岩石器と本研究第3集で発表しておいた石器を芹沢先生は良くご覧なられてから、「これは石英岩の尖頭礫器である。しかも確実に人工が施されている。」と、拡大鏡を通してご説明くださった。集った者一同は驚いた。石英岩と言えば北京原人が使用している石器である。東北の旧石器においてはまだ聞いたことのない石質である。昨年は不定形の未解決の石器とみていただけに、今度は、富山遺跡を是非発掘して学的根拠を握りたいという衝動にかられた。これはわが社会部の4月以来の懸案でもあった。このように芹沢先生の一言は本校の研究を自信と希望に満たし、更に一段と意欲に燃えたたせる契機になった。
その後、7月5日「岩宿の発掘をめぐって」と題して本校体育館において芹沢先生の講演が行われた。感銘深い講演が終ってから先生の退場まで万場の拍手が鳴り響いて止まなかった。
講演後、思いがけない貴重な資料が浮び上った。それは高瀬山出土の「ルバロア技法による亀の子形石核」であった。1936年7月26日阿部酉喜夫先生(現在寒河江高等学校長)が若き学究の徒として高瀬山花買場を探索中発見されたものであったが、日の目を見ないまま保管されて来た。一度芹沢先生に提示されるや否や「これこそ真剣に探していた亀の子形石核である。典型的なしかも見事なものである。全国でも数個しか発見されていない。」というお言葉であった。」(山形県立寒河江工業高等学校社会部1970『人工のはじまりの研究 -寒河江市富山遺跡の発掘と旧石器の追求-』第4集:3-4.)

1969年6月22日には富山遺跡出土資料に「お墨付き」が与えられ、7月5日の寒河江工業高校体育館には感動が満ちていた。
それから33年を経て、フランスで「石器のタイポロジーから年代を決定するという考え方」について話していた時、山形県立高校の体育館を満たした「万場の拍手」が思い起こされることはなかったのだろうか。


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長さん

星野遺跡は「古けりゃ偉い」のいにしえの思考の残る、かの「前期旧石器」の話より、西暦1380年代の小山義政の乱の話と、それに関連した遺物、物的証拠の方が、案外後世、社会重視されるのではないかと個人的には疑っています。
2014年12月20日に本家栃木県小山市で、関連遺跡と私見している栃木県小山市神鳥谷曲輪(鎌倉~室町時代?)遺跡の、「市民向け」講演会が、調査発掘者の秋山氏からありますが、これは興味深々ですねぇ。
栃木市星野の例で思い知るのは、南北朝時代というのは、ほんとに大昔であるという事。従って、星野遺跡の旧石器時代などは、「遺物が有ると言われる」という事以外、何もわからないのが当然と、個人的には、きっぱり割り切れますね。「日本最初史跡発見競争」の時代は、とうに終わった過去の話ではないかとしみじみ感じます。
by 長さん (2014-12-12 11:36) 

伊皿木蟻化(五十嵐彰)

「旧石器時代に詳しい研究者」曰く、「型式学も重要だが、他に参照するものがなく、従来の型式では判別できない石器をどう判断するか。いろいろな方法論が必要」(『朝日新聞』2014年12月8日夕刊、藤井裕介記者文責)。これでは一般読者は何が何やら訳が判らないでしょう。だから匿名なのでしょうか。『考古学崩壊』が示す「富山問題」には 「事件を思い返す契機」などではない、もっと別次元の問題が含まれています。

by 伊皿木蟻化(五十嵐彰) (2014-12-12 21:23) 

長さん

まあ。何と言う王様の指示かその存在などが原因で、いつごろどういう歴史的経緯で特定の握り斧を、各所でマスプロ制作したのか。その点を解説した〇万年前著作の、まとまった古文書でも発見されない限り。最も確からしい方法論として述べているように見える「型式学」も、しょせん、単なる経験則に基づく、明快な解明は期待できない、たよりない研究方法かと。さらにその他「いろいろ」というのも、更に「解明は期待できない」のが当然のイメージ。少なくともせいぜい、奈良時代以降の話しか、聞く機会のない私のような人間の頭では。
by 長さん (2014-12-15 13:40) 

FS3

 平素は大変お世話になり、心よりお礼申し上げます。
 富山遺跡をめぐる議論の概況がおぼろげながら見えるようになってきた気がしないでもありませんが、何分門外漢ゆえ、咀嚼できない事柄が数多く残されています。
 一般に一度結論が導き出されてしまうと、それに照らし合わせて資料解釈をしてしまうような過誤が生じるようなことは往々にしてありうることでしょう。専門分野に関してはそのあたりのことでどのような問題が存在するのかピンとくるのですが、専門外の議論に関しては自らの判断を下すことは難しいです。そのため、偏りのない公平な立場に基づく資料掌握がなされた安心感のある業績が発表されることを心待ちにしております。
 そのような業績は広く一般の蒙を拓くのみならず、論敵という立場におられる方(々?)にとっても、大きな価値を有する存在になると拝察されますが、見込み違いでしょうか(かかる業績は、「一から考え直す」ではなく、「一度ゼロにして考え直す」ための契機となりうるように感じられます)。
 今後この議論がさらなる深みを増し、より建設的な方向へと進展していくことを祈念いたしております。
by FS3 (2014-12-20 10:35) 

伊皿木蟻化(五十嵐彰)

ある意味で、ことはいたって簡単なのです。ある人は「私は原人がフランスから日本にやってきたとは言っていない」と言っているわけです。ということは、別の人が、「ある人は原人がフランスから日本にやってきたと言っている」と言っていることになるわけです。それでは、その別の人とは誰なのか、そしてその別の人は本当にそのようなことを言っているのか、ということだけなのです。ところが私を含めて(おそらく)多くの人が、別の人がそのように言っている事実を確認できない、ということなのです。こうした簡単明瞭なことが、受け入れられないとしたら、問題は全く深刻な、別の意味で「さらなる深みを増し」ていくように思われて仕方ありません。なぜならば、このことは「石器についての判断や記述は私の述べることを信用していただきたい」との余り例のない異例ともいうべき要請に深く関わっているからなのです。

by 伊皿木蟻化(五十嵐彰) (2014-12-20 13:03) 

長さん

小山市市立博物館で12月20日午後開催された、栃木県栃木市星野、星野の第三次小山義政の乱関連遺跡、小山市神鳥谷曲輪遺跡の、発掘者による講演会に出ました。殿様・小山義政が1380年の第一次の乱の時点で、解りやすく表現すればようするに、龍ケ丘城、または、神鳥谷曲輪の館の、どちらに居たのかに関し、今も激論が続いているとの話が中心と聞き取れました。発表者秋山研究員は、後者としたいようです。この両者の城を距離に換算して、たとえて言うなら、栃木県栃木市星野の星野遺跡の旧石器時代のネアンデルタールの類の住居が、「星野遺跡地層たんけん館」に有ったのか、あるいは「星野遺跡入口バス停の熊倉商店」付近に有ったのかで、大議論という距離的レベルだと思います。
「フランス、日本」って、具体的に、どこからどこへなんでしょうかねぇ。「フランス」「日本」という、きわめて茫漠とした”単語”で議論されている事が判った時点で、その研究分野に深くかかわるには、時期尚早と見て、議論の中身を確認する前に撤退ですね。私なら。

by 長さん (2014-12-22 10:53) 

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