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鏡像(リフレクション) [雑]

「五十嵐彰は、砂川遺跡出土石器資料を対象とした、母岩識別に基づく研究成果を取り上げて、再検討し、母岩の類型区分の解釈において論理的な矛盾があることを明らかにした(「石器資料の製作と搬入」『史学』81-4)。五十嵐がこれまでに明らかにしてきたように、砂川遺跡で実践された母岩識別に基づく研究の方法は様々な問題を抱えている。ただし、それでもなお、遺跡に残された石器資料から遺跡内外における石器製作のあり方を復元するという研究の着眼点自体は重要であるように思われる。五十嵐の一連の議論を踏まえつつ、研究方法を改善し洗練させることが求められる。」(山岡 拓也2014「旧石器時代研究の動向」『日本考古学年報65(2012年度版)』日本考古学協会:19.)

第1文・第2文には何の問題もない。問題は、第3文の「ただし、それでもなお」という接続詞以降の文意である。
一般的に「ただし」も「それでもなお」もほぼ同じ「留保」といった意味を表わすので、そうした語句を連ねるというのは、余程そこに筆者の思いが込められていると考えざるを得ない。

「砂川仮説」の「着眼点自体」が重要でないなどと述べた覚えはない。
私が述べたのは「母岩の類型区分の解釈において論理的な矛盾がある」ということである。
いくら「着眼点自体」が重要であっても「解釈において論理的な矛盾」があれば、それは科学研究(サイエンス)として致命的であることは、刺激惹起性多能性獲得細胞を巡る一連の騒動を見ても明らかであろう。
「論理的な矛盾」や「様々な問題」を認めつつ、「着眼点」を評価するならば、具体的にどのように「研究方法を改善し洗練させ」れば「論理的な矛盾」や「様々な問題」を克服することが出来るのか、「便宜的な基準」以上のものを提示することが求められているのではないか?
ちなみに私は「論理的な矛盾がある」砂川仮説をどのように「改善し洗練させ」れば、「遺跡内外における石器製作のあり方を復元する」ことができるのか、想像もできない。

「論文批評では五十嵐彰により、前述した大場論文と『季刊考古学』所収の小菅将夫「岩宿時代のイエとムラ」に対する批評があった(「第2考古学ブログ」)。小菅論文の石器集中部=「イエとムラ」仮説に対しては、田村隆の論文(2012「ゴミ問題の発生」『物質文化』92)を引用して五十嵐が述べているように、議論の深化が期待される。」(山田和史2014「旧石器時代」『東京考古』第32号:128.)

これまた既に述べたように、「議論の深化」どころか「議論の兆し」すら殆ど見られない。
しかしこれは正確な物言いではなく、引用文のような意識が芽生えていることをもって「兆し」とするべきなのだろう。

「教育・研究分野での格差問題も先鋭化する一方である現在、星野さんがかつて表明していた批判の精神は、近年「第2の考古学」のブログで日本考古学界のあり方を繰り返し糾弾している五十嵐彰さんに通底する。私たちを押し包む閉塞感の扉をこじ開ける可能性があるとすれば、”孤立者”の批判的精神に一縷の望みを託することである。」(安斎 正人2014「考古学史の方法 -星野達雄を読む-」『東北芸術工科大学東北文化研究センター 研究紀要』第13号:107.)

学問に「批判的精神」は不可欠だと考えるし(批判精神のない学問は炭酸の抜けたサイダーのようなものだ)、現在の「日本考古学」に「閉塞感」を充分に感じているが、本人は「糾弾している」つもりは全くない。ただ普段感じていることを述べているに過ぎないのだが、それがかのように受け取られるとしたら、それは全く当方の至らなさ、不徳の致すところとしか言いようがない。


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