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「全国高等学校 考古名品展」 [全方位書評]

九州国立博物館 2014 『全国高等学校 考古名品展』 真夏のトピック展

「高等学校にゆかりの考古資料をご紹介する「全国高等学校 考古名品展」がいよいよ開催の時をむかえました。これは国立博物館としましては初の試みであり、また、考古学という魅力ある学問に新たな光を当てるものです。
高等学校から小中学校にいたるまで、学校にはさまざまな考古資料があります。このことは、考古学に携わる人にはよく知られた事実です。しかし、考古資料が地域の歴史の語り部であることを思うとき、個々の資料は、より多くの人々に認識されてこそ輝きを増すと言えましょう。」(序:3.)

高校考古。それにしても、すごいネーミングだ。
英語表記だと"KOKO KOKO"。これもすごい。

「かくして20世紀中頃に「高校考古」は隆盛を迎えるが、1970年頃からは、埋蔵文化財行政の整備や高校生活の質的変容とともに、高校生と考古学は疎遠になりがちになっていった。しかしそうしたなかでも、各地には資料を守り伝え、また活動を続けている高校があり、教員がおり、生徒がいた。熱心な先生と生徒、そこに遺跡や遺物が巡り合うとき、いつでも高校考古は開花するのである。」(市本 塁「高等学校と考古学」:25.)

初めての表採は、国立市南養寺遺跡で拾った縄紋土器片。あの緑川東とは、目と鼻の先である。 
初めての発掘は、中学3年の夏、社会部考古班の班長として社会科の高橋先生に連れられて、松戸市の川沿いの旅館に宿泊しながら掘った幸田貝塚だった。
1976年の猛暑、現場にぶら下がっていたラジオは、町田市桜美林高校の甲子園優勝を報じていた。

「全国の高等学校の中には、社会科準備室や標本室に考古資料を所蔵する学校も決して少なくはない。教師や生徒の手によって収集されたもの、地域の方によって寄贈されたもの、教材として購入されたものなど、さまざまであろう。きちんと整理がなされ、台帳等も完備している事例もあるであろうが、収集の経緯や出土地・時代等が既にわからなくなっている事例も多いと思われる。むしろ、関係者の卒業や異動、かつて管理していた考古系クラブの休止・消滅等により事績が受け継がれていない事例のほうが多いであろう。」(池内 一誠「高等学校と考古学の新時代に向けて」:100.)

本書で採り上げられているような考古学の名門校ではなかったが、社会部の部室の奥にはリンゴ箱にぎっしりと詰められた縄紋土器片があった。「収集の経緯や出土地」など、既に分からなくなっていた。それでも、毎週ひたすら拓本を採っていた。私の人生で、一番拓本を採った時期である。あれで、土器に対して距離を感じるようになったのかも知れない。

なけなしの部費をはたいて買ったのが、エガースの『考古学研究入門』。
全く理解できなかった。当然である。
今、どうなっているだろう。

【追記】
最近「収集の経緯や出土地」の一端を物語る文章に遭遇した。
「この吉祥山遺跡に学術調査のメスが加えられたのは、記録によると昭和37年のことで、故甲野勇先生の指導のもとに桐朋学園社会部が発掘調査を行い、二基の縄文時代中期の住居址が検出されている(注1)。
注1 「桐朋学園社会部機関誌4号」(武蔵村山市教育委員会1978『武蔵村山市吉祥山遺跡 -第1次調査詳報-』5頁)


タグ:自分史
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NO NAME

吉祥山の遺物・・・一部が桐朋学園社会部の部室にあるのでしょうか?驚きです・・・。
by NO NAME (2015-02-23 23:39) 

伊皿木蟻化(五十嵐彰)

70年代の私の在学中にはリンゴ箱の中身は「すでにわからなくなっていた」ので、1962年調査というのは可能性ある話しです。
by 伊皿木蟻化(五十嵐彰) (2015-02-24 22:12) 

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