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吉井2013「朝鮮古蹟調査事業と「日本」考古学」 [論文時評]

吉井 秀夫 2013 「朝鮮古蹟調査事業と「日本」考古学」『考古学研究』第60巻 第3号:17-27.

「こうした植民地朝鮮における日本人の調査活動に対する評価は、その立場により大きく異なる。まず、実際に調査に関わった日本人研究者達は、「日本人の古蹟調査事業は、朝鮮半島の古蹟の実態を明らかにし、それを保存する役割を果たした」と主張した。それに対し、大韓民国(以下、「韓国」と表記)や朝鮮民主主義人民共和国(以下、「北朝鮮」と表記)の研究者達は、「日本人の古蹟調査事業は、朝鮮民族の文化財の破壊・略奪であり、その成果は植民地支配の正当化のために用いられた」と主張してきた。
しかし、このような議論を進める前提となるべき、当時の調査研究の実態を明らかにする作業は、必ずしも進んできたわけではない。」(17.)

示された両論に関する議論を進めるために、「当時の調査研究の実態を明らかにする作業」が必要である、と云う。
しかし、本当にそうだろうか?
示された両論は、2013年の時点において等しく対峙し合っているのだろうか?
私には、とてもそうは思えない。そう思っているのは、述べられたように「実際に調査に関わった日本人研究者達」ぐらいで、以後の世代の「日本人研究者達」で本気で前者の意見を述べている人がどれだけいるだろうか?
現存する「植民地朝鮮において実際に調査に関わった日本人研究者達」が殆ど存在しない現在、こうした架空の両論を併記する理由は何だろうか?

まさか筆者が本気で前者の意見を有しているわけではないだろう。であるならば、既に過去のものとなっている意見が現在も有効であり、両論が対立しているように描き出す、その真意は何処に?

それは「このような議論を進める前提となるべき、当時の調査研究の実態を明らかにする作業」の必要性を、より際立たせる目的以外に考えられない。
勿論、そうした「実態を明らかにする作業」は、必要である。
しかし、そうした「作業」を行なわなければ、「このような議論を進める」ことができない訳ではない。
もし両論が対立していると論者が考えるのならば、自らが両論のどちらの立場に立って、そうした「作業」を行なうのかを明らかにする必要があるのではないか。

筆者は濱田耕作1935「朝鮮に於ける考古学的調査研究と日本考古学」『日本民族』の一文を引用しつつ、朝鮮古蹟調査事業が日本内地の考古学に与えた影響について論じている(22-23.)
私は、濱田耕作1921「朝鮮の古蹟調査」『民族と歴史』第6巻 第1号の一文を引用したい。
「…黄海道鳳山郡にある新羅時代の鵂鶹城址が石灰岩採取の目的を以て三菱製鉄所、及ひ大日本製糖会社から払下げの請願があつたのに際し、古蹟調査委員会は、斯の如き富豪資本家の一時的経済的事業乃至は軍事的性質の事業よりも、朝鮮文化の貴重なる遺蹟を永遠に保存することが、人類的世界的義務として日本国民に取つて大切であるの理由を以て、払下に不賛成の意見を議決したことは、実に朝鮮総督府の新しい施政方針の一表現としても、余輩の頗る愉快とする所である。若し此の議決が将来或る種の運動等によつて翻さるゝ様なことがあつては、我等は鼓を揃へて之を排撃せねばならぬ。何となれば是は些細に以て決して些細に非ざる大問題に触れてゐるからである。即ち資本家対民衆の問題であり、軍国主義対人道主義の問題であるからである。」(75・76.)

しかし「日本考古学」が、軍国主義に対して非力であったことは歴史が示す通りである。

「朝鮮古蹟調査事業については、いわゆる文化財返還問題との関係で議論されることが多い。しかしこのように、発掘調査に関連する資料が日韓で分断され、しかもその実態がまったく明らかになっていないことこそが、より重大な問題ではないだろうか。」(22.)

ここでも文化財返還問題を解決するための「実態」解明よりも、発掘調査に関連する資料の「実態」解明が優先すべき課題として語られている。「こそ」という言葉の使用に、筆者の思いが伝わってくる。

「今、文化財の返還が問題になっていますが、古蹟及遺物保存規則の施行以前から、石塔や仏像などの文化財は日本に流出しています。また、高麗青磁なども、おそらく日露戦争の前後あたりから高麗時代の墳墓が大々的に盗掘されることによって流出していきました。では、規則施行によって流出が止められたかといえば、そうではなかったわけです。むしろ、朝鮮古蹟調査事業によって、楽浪漢墓をはじめとする墳墓から出土する遺物に対する注目が高まると共に、大々的な盗掘が1910年代の終わり頃から1920年代に進みます。そうした動きは実質的に止めることはできなかったし、最終的にコレクターの手に渡った盗掘品を取り上げることもできない。逆に、古蹟調査事業に関わった研究者が、コレクターのもつコレクションの図録作成を手助けしたりすることもありました。このような状況ですから、原則と実態というものを分けて、どれくらい原則が徹底できたのかどうかを、批判的に検証していく必要があるかと思います。」(同号収録「研究報告についての討議」:49.)

ここでは、何故かというよりやはり文化財返還を巡る「実態」解明よりも、古蹟調査事業に関わる原則の批判的検証に重点が置かれている。
戦時期植民地朝鮮における盗掘品の「実態がまったく明らかになっていないことこそが、より重大な問題ではないだろうか。」
ここで述べられているような、ある「コレクターの手に渡った盗掘品」が、東京国立博物館の所蔵品に含まれていることを最近知った。
「金製垂飾(TJ-5053):金冠塚出土遺物、金製垂飾(TJ-5054):金冠塚出土遺物、金製胸飾金具(TJ-5055):金冠塚出土遺物、金製刀装具(TJ-5056):金冠塚出土遺物 、金製刀装具(TJ-5057):金冠塚出土遺物、曲玉(TJ-5058):金冠塚出土遺物 、蜻蛉玉(TJ-5059):金冠塚出土遺物 、玉蟲翼片(TJ-5060):金冠塚出土遺物 」
慧門2014「小倉コレクション問題への新たなる接近について」(配布資料より)

「是は決して些細に非ざる大問題」である。
「資本家対民衆」の、「軍国主義対人道主義」の問題である。


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伊皿木蟻化(五十嵐彰)

【追記】
そもそも両論は対立しているのだろうか?という基本的な疑問。
「日本人の古蹟調査事業は、朝鮮半島の古蹟の実態を明らかにし、それを保存する役割を果たしたが、これは朝鮮民族の文化財の破壊・略奪であり、その成果は植民地支配の正当化のために用いられた。」
「日本人の古蹟調査事業は、朝鮮民族の文化財の破壊・略奪であり、その成果は植民地支配の正当化のために用いられたが、朝鮮半島の古蹟の実態を明らかにし、それを保存する役割を果たした。」
両論の前者に重点を置くのか、それとも後者を強調するのか、いずれにせよ両論は相容れない、排他的で、対立している意見ではなさそうである。それをあたかも対立している議論のように描き出す、その真意は?という冒頭の議論に立ち戻る。
by 伊皿木蟻化(五十嵐彰) (2014-07-17 21:52) 

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