SSブログ

岩崎1970「考古学研究の現状と問題点」 [論文時評]

岩崎 卓也 1970 「考古学研究の現状と問題点 -研究者の社会的責任をめぐって-」『東京教育大学文学部紀要』第76号:1-34.

「大学における教官と学生との断絶の姿は、個別学界にもより深刻に反映している。私の属する日本考古学協会昭和44年度大会の無残な光景は、まさにその事実を象徴的に物語っている。大会当日、「日本考古学協会解体」を唱える学生100名余りが会場に「乱入」し、うち79名が逮捕されるという事件が起った。いずれも考古学専攻の学生たちであったという。大会は機動隊の警備の下で強行された。しかも、その冒頭に一会員が発した、「研究発表も貴重だが、何が学生をしてあのような行動に走らせたか、を深刻に考え合うことの方が重要ではないか」との動議も、ほとんど支持されることもなく「早く研究発表を始めてほしい」という圧倒的な参会者の声に封じ込められてしまった。もちろん、協会執行部は学会の問題を討議するのは春の総会の場である、という規定に縛られていたし、研究発表を期待して全国から参集した人びとへの責任を感じての結論だったと思う。問題は参会者により多くあったというべきであろう。
学生は「研究することが目的である」との研究者の姿勢に疑問を抱いているのであり、そこから「研究とは何か」「学問とは何か」「どのような立場から学問をするのか」という問いが生まれてきているのである。一体、戦前の考古学の反省すべき点は何であったのか。また、現在われわれはその反省を貴重な糧とし、それをふまえて研究をおこなっているだろうか。考古学研究の現在的意義は何なのか、研究者は研究成果をどのように社会に還元すべきなのか、研究者の社会的実践はどうあるべきなのか、等々、これまでも若い研究者の間で、部分的にはしばしば問題として提起されてきたことがらであった。若い世代との決定的ともいえる断絶を目前にしたいまこそ、考古学研究者のすべてが、これらの問題を深刻に考える必要があるのではなかろうか。少なくとも研究者は「研究すること」だけが目的ではないはずだからである。」(2.)

当時41才の筆者が、「大学の構成員としての責任を痛感」して「学生の問いかけに根源的な問題がある限り、大学構成員の一人ひとりが、これを自己の問題としてとらえ、それに応える努力を怠ってはならない」(1.)と、「若い研究者」「若い世代」の問題提起に応えたものである。当時の「日本考古学」が、真摯な応答を試みた数少ない文章と言えよう。
それから約10年後、私が確か学部の2年か3年の時に、当時既に存在が忘却されつつあった本論を取り上げてゼミで発表したことがあった。私が本論を選んだということを知った時の指導教授のかすかな驚きの表情が今でも忘れられない。それは「お! お前はこんなものを選んだか」という感情であり、実際には「余り深入りするなよ」という親心とも言えるセリフだった。しかし今になって思い返せば、その頃、私の指導教授と本論の筆者は、本論と同じような名前の座談会の出席者として、当時の現状と課題について密度の濃い対話を交わしていたのだった(1985「日本考古学の現状と課題」『考古学調査研究ハンドブック 3 研究編』雄山閣:167-180.)。
ところが、この座談会ではおよそ10年前に本論の筆者が「若い世代」への応答として記した「戦前の考古学の反省すべき点は何であったのか」という点については、一切触れられていないのはどういう訳だろうか。さらには「大学における教官と学生との決定的ともいえる断絶」を象徴的に物語っている「事件」についても。
この10年の間に、一体何があったのか? どのような事態が進行していたのか?
「問題は参会者により多くあった」とされた「早く研究発表を始めてほしい」という「圧倒的な参会者の声」は、いったいどのように総括されたのだろうか? 

「わが考古学者が純粋に学問的関心から朝鮮の古蹟調査に積極的に加担したことが、結果的には当時の植民地政策の一翼を担うものであったとの批判を受けているとすれば、結論こそちがえ、その中に通ずる精神は同じと断ぜざるをえない。すなわち、座談の場では発言に気をつけ、問題の核心にふれることをさけたり、報文が正鵠を得たものであったにもかかわらず、それは少しも活かされず、日向の地は神話の故郷としての地位をゆずらないまま、いや西都原古墳群そのものが、やはり神話とのかかわりあいで地方人士の間に1945年まで語り続けられてきた事実を想起するならば、やはり考古学そのものの持つ社会的意義に関する深い反省の糧とせねばならないものがあるのではなかろうか。」(4.)

様々な意味で、言葉が時間を超えて「反響」している。
2014年の現在にも「日本考古学」において「語り続けられてきた」「神話」があるのではないか?
それは「考古学そのものの持つ社会的意義に関する深い反省」が広く「糧」とされなかったからではないのか?

「右にみたような1950年代前半期の動きは、歴史学界においては重大な危機として受けとめられた。かれらは、このような「逆コース」に抵抗するという、実践と自己の学問とを、結びつけて考えるようになった。歴史学が実証的であるためには、常に時の政治権力から独立していなければならない、とも決意された。政治からの独立ということは、日本の考古学界を支配する政治にはかかわらないという姿勢とは、まったく別次元のものであることはいうまでもない。とくに破壊活動防止法に関しては「歴史研究の自由」への危機として活発な動きがあり、「建国記念日」制定への動きに対しては、1952年1月に日本歴史学協会の名で反対の意向を表明している。これらは決して特定イデオロギーと結びついての運動ではなかった。少なくとも歴史学界の大勢は、自己の学問の立場から、研究の自由を奪うおそれのあるもの、皇国史観復活への芽は摘みとらねばならない、という使命感が支配的であり、それを通じての社会的・政治的実践は当為のこととして受けとめられていたのである。しかるに、わが考古学界では、そのような世の動きにかかわりをもつ姿勢はほとんどみられなかった。」(25.)

「過去の歴史的事実を研究することは可能であるが、様々な現代政治的問題が絡むこと」(日本考古学協会理事会2010)を理由にして、「日本考古学」の「良心を問われる問題」(旗田1965)を忌避する現在を、筆者はどのような思いで見ておられるだろうか。

「かつて考古学者たちは、皇国史観に抵触することをさけて研究の自主規制をおこなった。その結果、多くの若人が皇国史観に勇気づけられて死地に赴くのを無為にむすごした。考古学者の研究は全く国民とは無縁なところに存在したわけである。これを「政治にかかわらない」美徳というのであろうか。われわれは、「もはや戦前・戦中のことは再現されるはずはない」という楽観をもって、これを傍観してよいのであろうか。これは、戦前の再現の有無の問題以前に、考古学者 -学問をする人- のもつ社会的責任は何かという問題である。「人間は社会的な存在であり、学問は社会的実践の一つである以上、学問は何等かの仕方で、社会に奉仕するものでなければならない」(堀米庸三1960「綜合的歴史観への一提言」『歴史評論』123)と考えるのは当然のことといえよう。」(30.)


nice!(2)  コメント(2)  トラックバック(0) 
共通テーマ:学問

nice! 2

コメント 2

鬼の城

現実の政治に対して、無視・沈黙することは言うまでもなく、その政治を担う政権を支持することであり、「個別学問の殻に閉じこもる」ことではなく、当政権に対して積極的に加担することだ。こういう風に考えると、この国の学問と言うものが成り立つ土壌に、あるいは立脚基盤について「哲学の貧困」を指摘できることはもとより、そもそも学問として成り立っているのかと言うことについて疑問を持ちます。

ましてや、現政権を支持することを明らかにする、あるいは右翼を自称するような者まで容認することは、考古学世界と言うものが根腐れしている証だということです。
by 鬼の城 (2014-02-01 11:16) 

伊皿木蟻化(五十嵐彰)

「早く研究発表を始めてほしい」という圧倒的な参会者の声、ということについて、ずっと考えています。秩序を維持すること、現在の状況を「保ち守る」こと、そのことが「研究とは何か」「学問とは何か」を考え共に話し合うことよりも、何よりも優先すべき事柄であると、「圧倒的」多数が考えていたということ、そして恐らく今でも考えているだろうということ、その結果が2014年の今の日本を形作っているのでしょう。
by 伊皿木蟻化(五十嵐彰) (2014-02-01 22:44) 

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0