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三木2006「社会存在としての研究者」 [論文時評]

三木 弘 2006 「社会存在としての研究者 -戦前・中昭和期の歴史概説書を通して-」『弥生文化博物館 研究報告』第6集、第4回共同研究報告 弥生時代研究史と現代:9-28.

「社会状況と自身の研究内容とを十分に認識し、その間の方向性に気付き、それを縮めるべく自説を変容させる第3のタイプは、その「社会的責任」が明白である。体制におもねり、時流に迎合して自説を変容する研究者は、自己認識を装いつつその埒外に論を展開している点で、「社会的責任」の追及を免れることはできない。それはまさに“精神的転向”にほかならない。(中略)
ただし先述したように、“精神的転向”の背後に存在する社会状況を視野に入れて変節の軌跡を追及しなければ、「社会的責任」の所在を明確にすることは難しい。現在の視点から過去を批判、評価することは容易であるがそれ自体、現時点の社会状況に染まった行為である。求められるべきは、定性的な批判ではなく、歴史的文脈の中に表示内容を時系列に位置づけた上で展開する批判である。」(10.)

天皇を法人たる国家の元首たる地位にあるとする、ある意味で「穏当」な「天皇機関説」を唱えた学者が「学匪」・「謀反人」と中傷されて、著書は出版法違反で発禁処分、不敬罪で起訴猶予処分、右翼に襲われて重傷を負う。後に民間人で唯一A級戦争犯罪容疑者として起訴された人物の著書『日本二千六百年史』(大川1929)ですら、不敬箇所を指摘されて改訂を余儀なくされたという。その改訂箇所を見比べても、その改変の意味すら十分に読み取り得ないほどの「疑心暗鬼に満ちた雰囲気が当時の社会にあった」(22.)。学問的逸脱、誤りは明らかであったにも関わらず。

「だが実際に論争が起こらなかったのは、考古学を専門分野としない研究者が記述した内容としてことさら取り上げなかったのか、それとも‘国体’に関わる内容で充満された出版物への批判をあえて避けたのか、あるいは異説に対して逐一批判をする精神的余裕を既に失っていたのか、幾つかの可能性を想像することはできる。そしてもし第2のように内容を傍観することで反批判を避けようとしたのであれば、やはりそこにも「社会的責任」は問われざるを得ないであろう。
たとえ自らが叙述したものでないとしても、曲解した内容を流布して多くの人々を欺く行為に対して、研究者が批判的であることは当然である。先に述べたように、昭和10年代の弥生時代研究の水準からすれば、考古学資料に基づいて西村や遠藤への批判は行い得たはずであった。
このことからすれば、“精神的転向”の責任とは異なるもうひとつの「社会的責任」、すなわち“傍観者”の責任もあるといえる。(中略)
しかも家庭や家族を持って暮らしていく中では、生活、そして場合によっては生命をかけてどれほど批判的精神を貫くことができるだろうか。こうした単純な思いはある。しかしその一方、時流に合わせて捻じ曲げた内容の叙述をさも先端の研究成果であるかのように装って流布したり、あるいはそれに気付きながら傍観するだけであるなら、研究者が社会の中で存在する意味を失うことも確かである。」(24.)

母岩識別・砂川三類型から<遺跡>問題・考古二項定理に至るまで、明らかにおかしい(あくまでも私にとって)と指摘した事柄が、大方の支持を得ることなく放置されて、まるで何事もなかったかの如く、従来の説が繰り返し述べられ続ける。
そこには、批判を受けた当事者だけではなく、他者に対する批判を自らのものと受け止めない関係者たちの「傍観者責任」も問われることになる。

時局・時流に合わせて自らの学説を変容させる「便乗型」だけでなく、時局・時流に迎合して問題を提起する声を抑圧する「黙殺型」もある。
そこに共通するのは、自らの地位や権力を維持したいと望む「単純な思い」すなわち「現状維持志向」である。
これをレンフルー&バーンは、「損得勘定あるいはものごとを素直に考える能力の欠如」(their own gain, misguided inability to think straight)と表現した。

日本考古学協会 議案第143号
1.倫理綱領は協会員個人の自覚を求めているものであること
2.国政レベルでの事案であること
以上の理由から、文化財返還問題は総会の審議事項としない。

自らに影響が及ばない安全な場所から遠巻きに見守る、消極的な傍観者(negative onlooker)。これが、一般的な「傍観」なる言葉の意味するところである。
しかしひとたび具体的な問いが差し向けられ、何らかの応答をせざるを得ない場面が現出すれば、そうは言っていられなくなる。
差し出された問いに対して、明確な拒否をする。あるいは無視し黙殺することで遣り過ごす。あるいは「継続して審議いたします」といなしておいて、実質的にはほとぼりが冷めるまで放置する。
いずれにせよ何らかの態度を示す訳で、積極的な傍観者(positive onlooker)である。これはもはや本来の「傍観者」なる語義を逸脱する。正に当事者以外の何者でもない。
あるいは従来の傍観者的立場を維持することができないことを自覚し、積極的に当事者であることを認め、問題解決に向けて取り組もうとする。
問題を真に解決するには、これしか方法はないのは明らかだ。
問いに対して対峙し、差し出された問いを自らの責任の内に引き受けること。
社会的な責任を有する一個人として、研究者の集団である学会組織として。


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