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第2考古学セミナー2012#2(報告) [セミナー]

現在投稿中の論文をもとに、学部の学生から院生・社会人・大学教員に至る様々な方の意見を伺った。今回が初めてという方も、そして「20年振りだけど、ここは変わってないね~」という方まで、それぞれがそれぞれの立場から密度の濃い議論が交わされた。
そして話しは結局、「砂川モデル」あるいは「砂川型遺跡構造論」そして「母岩識別研究法」の現在というところに集約されていった。いったい現在の日本の旧石器研究において、こうした研究方法はどのような評価がなされているのだろうか?

最新の研究成果から。
「母岩別資料分析そのものに問題点もあるが(五十嵐1998)、この分析方法によって旧石器時代の行動研究は飛躍的に進展してきた。したがって、こうした分析事例が少ない九州地域においては、まずはこれに立脚した遺跡構造研究の蓄積が必要である。これと石材原産地の情報を出来うる限り整理し、そして、その石材の消費地遺跡への搬入形態を知ることが、現状では集団の移動範囲や集団関係にアプローチできる最も妥当な方法といえるのだろう。これに加えて、「石器が動く」ことと「集団の動く」ことを関連づけて解釈する場合の方法論を鍛える必要がある。」(芝 康次郎2011『九州における細石刃石器群の研究』:10-11.)

そして述べられているのが、以下の「本書のねらい」である。
「本論で対象とする非削片系細石刃石器群の行動研究において、試みられるべき分析法は、石材原産地の特定をはじめとする石材分析、そして個別遺跡における母岩別資料分析である。特に九州地域においては、こうした分析方法の適用が不可欠である。母岩別資料にもとづく技術分析と、この分析を通した石材ごと(の)作業工程の吟味と遺跡間接続の検討が次に必要となる。」(同)

「石器が動く」ことと「集団の動く」ことを関連づけて解釈するために、母岩別資料分析が不可欠とされている訳だが、その根本である母岩別資料分析については、あっさりと「問題点もあるが・・・」といなされては問題点を指摘している側として立つ瀬がない。問題点を克服する道筋でも示されているのならともかく・・・ せめて五十嵐1998「考古資料の接合」だけでなく、五十嵐2000「接合」『現代考古学の方法と理論Ⅱ』あるいは五十嵐2002「旧石器資料関係論」も御参照頂いて問題点を検討していただければ、このように「あっさり」とは行かない由縁もご理解いただけたのではと残念に思う。そして今回のセミナーでの発表は、正に考古資料を類型化することで人々の行動を解釈するにあたって要となる石器資料の製作と搬入に関する「砂川モデル」が内包する本質的な「不都合さ」を指摘するものなのだが・・・

参加者の方々からは、母岩別資料分析あるいは「砂川モデル」については、もはや有効性を喪失しているとの認識が徐々に浸透しつつあるから、最近の資料報告ではその実践率が低下しているのでは、とかそれは単に近年の社会情勢を主因とする整理作業の時間的な減少、それ故の消極的なすなわち非意図的な不採用なのではないかといったことが論じられた。
しかし「危ない」と指摘されている研究方法あるいは「危ない」資料に対する消極的な忌避、すなわち何となく「やばい」から誰も使わなくなり、次第に忘れられていく、あるいは誰もがおかしいと思っているのに、そのことを公の場面で論じ合うようなことはあえて避けるといった在り方が、決して推奨されることでないことは、2000年11月5日以来、私たち皆が身に沁みたはずである。
それなのに・・・

黒曜岩の石材研究は、花盛りである。各種研究費による特定研究から、海外研究者を招聘しての国際学会の開催に至るまで。
しかし黒曜岩を主題とした母岩識別研究法の是非は、議論の俎上にすら上がらない。
何故か?

「2000年に発覚した前期旧石器捏造事件の影響は、旧石器研究のみならず、縄文石器の研究にも大きな影響を与えた。捏造に縄文石器が多数使用されていたからである。旧石器研究者は、縄文石器に関する型式学的知識が欠如していたため、深い地層から発見されたという層位情報を鵜呑みにして、見破ることができなかったのである。この問題は視点を変えると、縄文石器の問題であることを忘れてはならない。すなわち、体系的研究方法が確立していて、それを専門とする研究者が多く存在していたら、旧石器研究者が見破れなくても、縄文石器研究者が見破ること(が)できたはずだからである。筆者は発覚以前から縄文石器であると疑念をいだきつつも、何ら発言できなかったのは、体系化された研究方法が確立しておらず、彼らを論破する自信が持てなかったことにほかならないからである。」(大工原 豊2008『縄文石器研究序論』:15.)

もちろん体系的研究方法の確立は必要条件であろうが、十分条件にはなり得ない。
やはり、ここに行き着く。

「外部も藤村の捏造に気づかなかったのは、研究者の大勢が捏造を見破るだけの観察眼と批判力とをもっていなかったからだと認めるほかない。しかし、調査関係者はその指摘を深刻に受け止めることはなかった。チェックしようとする研究者が内部に1人も現れなかった調査団の批判精神の欠如は深刻な問題である。」(春成秀爾2003「前・中期旧石器問題の解析」『前・中期旧石器問題の検証』:597.)

事は、当該調査団や「前・中期旧石器」に限られない。当然のことながら。
「後期旧石器」はもとより、「日本考古学」全体の問題であることは、誰の目にも明らかである。

アメリカで大学教育を受けられたという参加者の方が述懐されていた。
「日本に帰ってきて驚いたのは、シンポジウムなどで研究発表が終わると誰も何も質問もせずに、ただ拍手だけがなされていることでした。誰も自分の異見を述べることもせずに。こんなことは理系の研究発表では、まず考えられません。」
そうであろう。


タグ:批判精神
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コメント 1

伊皿木蟻化(五十嵐彰)

つぶやき
「そのものに問題点があるとされる分析方法によって、飛躍的に進展する研究とはいったい・・・」
by 伊皿木蟻化(五十嵐彰) (2012-10-20 23:23) 

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