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海南島近現代史研究会 [研究集会]

海南島近現代史研究会 第6回総会・第10回定例研究会

日時:2012年8月18日(土) 13時~17時
場所:大阪産業大学梅田サテライト・レクチャーA室(大阪駅前第三ビル 19階)
主催:海南島近現代史研究会

主題:日本はなぜ海南島を侵略したのか
* 海南島近現代史研究会創立から5年間の活動報告(キム チョンミ)
* 日本はいつ海南島侵略を開始したか(佐藤 正人)
* 中国侵略戦争からアジア南方侵略への中継地としての海南島(斉藤 日出治)
* 日中戦争の推移と三竈島・海南島(蒲 豊彦)
海南島「現地調査」報告
 2012年3月18日‐29日の「現地調査」報告(キム チョンミ)
 2012年4月の「現地調査」報告(久保井 規夫)
討論 日本国家の侵略犯罪の責任者はだれなのか
報告 海南民間抗戦研究会準備会、海南省民族学会との共同研究・共同調査について
    次回の海南島「現地調査」主目的と日程(10月下旬-11月初旬)について

2008年の第2回総会【2008-8-3】以来、2006年調査【2006-5-9~22】の友人たちと旧交を温める。
会が始まって間もなく、大阪駅周辺は猛烈な雷雨に見舞われる。 

「日本政府と日本軍は、海南島をアジア太平洋侵略の基地とし、さらに台湾や朝鮮や中国東北部と同じ植民地としようとしました。そのため、日本軍は、海南島各地で、抵抗・反撃する抗日反日武装部隊の兵站をつぶそうとして、海南島各地で住民虐殺や略奪などの暴虐な侵略犯罪をくりかえしました。
また、日本政府と日本軍は、日本企業を海南島に呼び入れ、飛行場、港湾、道路、橋梁、鉄道などの軍事施設を整備・新設し、鉱山資源、森林資源、漁業資源を奪いました。日本政府と日本軍は、海南島各地に「慰安所」を設置し、性的暴行をくりかえしました。
日本政府と日本軍と日本企業は、アジア太平洋民衆を海南島で強制労働させ、おおくの人のいのちを奪いました。日本政府と日本軍は「軍票」を乱発しました。
本会はこの海南島における日本の侵略犯罪の実態を具体的・総合的に把握し、それが海南島の政治的・経済的・文化的・社会的な構造をどのように破壊したのかを究明します。
本会は、海南島における日本の侵略犯罪の実態を可能なかぎり総体的に把握し、その歴史的責任を追及します。」
(海南島近現代史研究会 会則 第1条)

「日本軍が捨てた吸い殻を拾って吸って、首を絞められた。当時は10歳くらい。トリとかブタを盗っていった。女性を強姦するのも見た。10人から15人くらいで村に入ってきて、トリ、ブタ、アヒルとか盗って、先に持って帰る。残ったのが、家に押し入って強姦したりする。日本軍が村に入ってくる前に逃げた人もいた。ほとんど逃げて、残っている人は少なかった。山の中に逃げた。「日本人が来るから早く逃げろ」と大声で知らせる。「リーペン ライラ。リーペン タオラ。ゴウ ゴウ」。「ゴウ」は黎語で、「走」の意味。残った犬、トリ、ガチョウ、ブタなんかを盗られた。」 
白沙県七坊鎮保優村で(黎族の村) 陳 作助さん(1933年生)

「生存者からの聞き取りの中で、私がショックを感じるのは、たとえば河北なまりの強い中国語にまじって、「イチ、ニ、サン、シ、…」「メシ」「バカヤロウ」といった日本語を突然に耳にするときである。それは、日々の生活の継続の中で覚えた、いや覚えざるを得なかった言葉の数々であり、身体記憶からは切り離せない苦難の生活言語である。
そこにまた、大阪築港の複数の生存者が、労働現場において、あるいは宿舎と労働現場を往復する途中で近隣の大阪市民から投げつけられた「クサイ、クサイ」という言葉を記憶しているという事実を付け加えることができるだろう。」
(杉原 達2002『中国人強制連行』岩波新書785:195.)

 知事は「いつでも上陸申請する」と話していたが。
それはやっぱりね、持ち主との売買契約が成立しませんとね。でもそれはいろんなバリアーがあったりもするんですよね。国が勝手なことを言い出したりもするしね。もう一回所有者と近々会って話しますから
 バリアーの意味は。
国に聞いてみろよ
(朝日新聞2012年8月18日「石原知事の発言から」)

「生存者や遺族の証言を、直接に、あるいは通訳を介して間接に私が聞くとき、そこで私が受けとるのは、話し手の体験の痕跡である。「クサイ、クサイ」という日本語もまた痕跡である。それは語り出され、私が聞いた、その時と場所を限定した一回性のものである。それはそれで、たしかにひとつのできごとなのだ。問題は、そのできごとを単なるエピソードとして自己完結させて「紹介」するのではなく、そこに刻みつけられた痕跡をわが身に引き取って、自らの問題として、受けとめ直すことにあるだろう。そしてそれは、いつも十分なものではあり得ず、だからこそ、促されるようにして繰り返し試みるしかない性質のものなのである。それが当事者に記憶されたできごとを分有するという主体的な営みなのではないだろうか。
そして、生存者や遺族たちの生(そして亡くなった当事者たちの生)が、どのような関係の中において位置をしめるのかを考えるとき、一見したところ時も場所も無関係な者であるかのようにみえる私たちは、決して当事者が投げかける痕跡とは無縁の事後者ではないのだ。私たちには、現在の自身のよって立つ地点を絶えず確認しながら、新たな現場を構築するような知的態度が求められているであろう。「知」というものが問題となるとすれば、それを生み出す作業の内実は、テキスト間の対応関係や、その内的な論理的関連を指摘することにとどまるものでは、もはやあり得まい。ともすれば制度化され、期せずして特権的な局面へと囲い込まれていくような知のあり方に対して、打ち出された言説が、まさにその流通する場それ自体を問いかけ、揺さぶり、流動化させざるを得ないような形で、既成の知に拮抗していくものとしか、「知」なり「学問」なりが立ち現れることはないだろう。」
(杉原2002:199-200.)

9月29日、市内の陸上競技場での体育大会。ある男子は、少年がハチを口に入れられそうになっているのを見た。付近には10人くらいいて、同じ場面を見ていた。そのうちの誰かが「やめろや」と言ったが、口先だけに思えた。「もともと面白いやつやったから、真剣に嫌がる姿を面白がっていたんだと思う」
競技場では、少年が鉢巻で後ろ手に縛られ、口に粘着テープを貼られるところも複数の生徒が目撃している。でも、「いじめが起きている」という共通認識になることはなかった。
一方的に押さえつけられたり、昼食のパンを取られたりしているのを見た生徒は、少年がその後も元気にしているので大丈夫だと思っていたという。
別の男子は、自殺の1ヶ月ほど前、こんな話を聞いた。少年がズボンをずらされるのを見た生徒が「いじめはあかん」と止めに入った。すると「お前もいじめるぞ」と脅かされた――。
「それでなんとなく、かかわると自分がターゲットになるっていう雰囲気になった。少なくとも自分は何もできなかった」
(朝日新聞2012年8月18日「笑顔の向こうは 大津・いじめ事件 上」)

略奪、性暴力、侵略、加害、差別、蔑視、独善、傲慢、身勝手、すべてはこうした一つひとつの小さな「見て見ぬ振り」から出来上がっている。


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