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J.トーマス2012『解釈考古学』 [全方位書評]

ジュリアン・トーマス(下垣 仁志・佐藤 啓介訳)2012 『解釈考古学 -先史社会の時間・文化・アイデンティティ-』 同成社(Julian Thomas 1996 TIME, CULTURE AND IDENTITY An interpretive archaeology, Routledge.)

「時間・文化・アイデンティティは、事実上あらゆる形式の考古学の記述に潜在する概念であるのに、考古学の内部でそれらの性質について真っ向からとりくまれることはほとんどなかった。これが、本書の核となる理論的議論である。そのため私たちには、年代決定法や編年はあるのに、時間とはなんであるのかについて、ほとんど問われることがないのである。私たちは、過去の「人間集団(ピープル)」や「地域集団(コミュニティ)」や「集団(グループ)」といった実体がどのようにあらわれ、認識されるようになったのかを深く考えることもなく、これらについて書き綴っている。なによりも私たちは、「物質文化」とよばれる何ものかを研究しているのだが、私たちはどうも、物質文化という語の背後にこめられがちな文化と自然の区分がわりと最近の発明だという認識に、問題を感じていないままのようである。」(i-ii.)

16年前の先端研究が、「日本考古学」では今でも先端どころか、受け止めることすらできないのではないかと危惧されてしまうところに、「彼我の懸隔」が埋め難く広がっていることを確認することになる。

「人間は、日常生活のなかで物質世界の構成要素を把握し、これを過去の人間がおこなった実践の証拠として構成するのである。…私はこれを「考古学的構想力」とよぼうと思う。…アカデミックな考古学もまた、物質性へと向かう人間のこうした根源的な志向にもとづいて築きあげられているのである。」(93.)

考古学の一般普及書(ギャンブル2004『入門現代考古学』)冒頭において、「考古学的な思考を練りあげること」として言及されていた「考古学的構想力」【2009-12-24】(これは第2考古学の異名でもあり、佐藤啓介2004「あとにのこされたものたち」における「ただもの論的理性(materialistic reason)」に通じるものである)が、ようやく日本語で読めるようになった。

それにしても、「取り扱い注意」とされる思想家に全面的に依拠した書籍である。「はじめに」の断り書きだけで10ページが費やされて、それだけの理由が示される。
それにしても、ハイデガーである。ハイデガー・ビギナーにとっては、「世界内存在」(23)、「被投」(61)、「道具的存在者」(100)、「住みこみ」(131)ぐらいまでは何とか追いつけても、「頽落」(59)、「気遣い」(61)、「脱自」(62)、「世人」(70)、「方界」(106)、「隔たりの奪取」(125)になると…

理解困難な言説に出会ったときの対処方法の一つは、自分が抱える馴染みの問題に引き付けて考えること、所謂「ガデンインスイ法」である。

「考古学的分析を手がける際に私たちがしていることは、歴史のたえざる流れから物質世界のなんらかの部分をとりだし、これらを対象として構成することなのである。したがって、記録にテクストとしての性格があるというモデルには、いささかの欠点があるかもしれないが、しかしこれらの事物の「証拠」としての性格は、自動的にあたえられるわけでもない。それどころか、「考古学をする」ためには、私たちは特定の事物を、証拠を示すものとして認識しなければならないのだ。その結果、考古学的分析は、実在物をそれ特有の仕方で認識することを可能にする「明るみclearing」という特殊な形式をとることになる。別のいい方をすれば、私たちは事物から対象へと実在物を変容させることによって、実在物を証拠として創造しなおさなければならないのだ。こうした対象化は、つねに政治的な行為となる。なぜならそれは、社会的コンテクストのなかにすでに実在している物質にたいしてなされるからである。」(91.)

これはとりもなおさず<遺跡>問題、それも<遺跡>化について述べた文章として、そのまま理解することができる。
「<遺跡>化とは、濃淡様々な価値を含んだ土地を分節し、<遺跡>なるものがあたかも実体として存在するものの如く産出される過程、<遺跡>が物象化されるメカニズムをいう。」(五十嵐2007「<遺跡>問題」:251.)

あるいは
「私たちが「世界として現成する」とよびうるのは、まさにこれらのネットワークのもつれた糸がすべて絡みあって作用するプロセスのことなのである。ひっそりと親密に事物とともに住みこみ、事物とうまくやってゆき、使いはたすことなく事物を使うことで、人間はこの世界現成化のなかへはいりこんでゆく。したがって、死すべき者としての人間とは、世界の運動におけるひとつの本質的要素なのだ。事物は、事物どうしの多くのつながりを露わにする際に、この世界現成化の別の側面に私たちがはいりこんでアクセスすることを可能にする。そうしたつながりの一面こそ、事物が大地に根ざすあり方なのである。」(112.)

これは、「痕跡連鎖構造」そのものである。
「遺跡から掘り出された遺構や遺物は、私たちの日常生活を取り囲んでいる品々と同じように、遺構・遺物を作り出した人々の生活をも取り囲んでいた品々の一部であっただろう。こうした様々な「もの」の相互関係、「もの」と「もの」とのつながり、「もの」の連鎖の構造を明らかにするには、どうしたら良いだろうか。」(五十嵐2004「痕跡連鎖構造」:279.)
「個別の遺構・遺物研究に自足することなく、様々な「もの」が「もの」を作り使う行為主体を介して連鎖している構造を明らかにする契機として、痕跡連鎖構造という考え方を提示したい。」(同:286.)

キーワードは、「つねに、すでに」(always already)である。すなわち、「被投性」(throwness)である。

「日本考古学」においてもそれなりにというより多大な影響力のある2人の著名な考古学者についても、トーマス氏にかかれば「バッサリ」である。
チャイルドの物質文化は「内容のない形式」であり、ビンフォードの物質文化は「実体のない現象」だという(42.)。
すごい…としか言いようがない。

本書(Interpretive Archaeology)は、類書(Tilley ed.1993 Interpretative ArchaeologyあるいはHodder et.al.1995 Interpreting Archaeology)とも、多少ニュアンスが異なるようである。
さらに言えば、日本の「解釈考古学(Interpretative Archaeology)」(山本典幸2009「環状木柱列と祖霊(上)」『史観』第161号:99.)とも、共有部分はともかく明らかな方向性の違いも見られるようである。

最後に、印象的な二つの文章を併記しておく。
「私には、いかなる言説(ディスクール)も非政治的なものにはなりえないという信念があることを、まず最初にはっきりさせておきたい。」(7.)
「過去の歴史的事実を研究することは可能であるが、様々な現代政治的問題が絡むことや、西アジア考古学会の事例等々の意見が交わされた結果、今後も継続的に扱いについて検討すること」(日本考古学協会2010「6月理事会」)


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鄙の考古学徒

こんにちは。久しぶりに貴兄の掲示板を拝見しました。刺激的です。深い森の中で生きている楽しみはあるのですが、なかなか学問的情報に疎くなり、寂しい限りです。さっそく、本誌と田村・内田論文を入手して学習しようと思います。時間軸による文化的地理的範囲のアメーバ状広狭現象は、重要な問題だと考えてきました。刺激を与えていただきありがとうございました。

by 鄙の考古学徒 (2012-05-22 06:14) 

伊皿木蟻化(五十嵐彰)

いつまでも向学心を持ち続けることが、大切だと思います。
by 伊皿木蟻化(五十嵐彰) (2012-05-22 20:36) 

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